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君何処にか去る 第一章(2)


 
 ありがたいことに、無明は酒が入っても乱れなかった。口の利き方は相変わらずであった。
「六〇年安保のときには、どこにいた」
「名古屋だ。生まれてから小中高に大学、勤め先、みな名古屋だ。この齢になるまで、住まいはあれこれ移ったが、名古屋から出たことはない」
「儂とは正反対だな。儂はいろんなところへ流れた。おたくからすれば、儂の一所不住が不可思議だろう。儂からすれば、おたくの定住が不可思議だ」
 無明は、こちらのコップに酒を注ぎたした。俊雄は反論も問いも控えた。目の前の男は、おそらく何日ぶりか何十日ぶりかで話し相手を得たに違いなかった。
「俊雄さん、もっと飲んだらどうだ」
「わたしは、日本酒があまり好きじゃない」
「儂もだ。しかし、選り好みできる立場じゃない」
 無明は、それっきり無理強いしなかった。俊雄の無明に対する評価は、右に左に揺れる。
「俊雄さん、察するにおたくは洋酒党か」
 と、無明。
「ワイン党だ」
「儂もワインが好きだった。いまじゃ、高い酒はとうてい買えぬ」
 無明は嘆じた。
「灘の白鶴生一本。無明さん、これだって高い酒じゃないか」
 日本酒のラベルを見て、俊雄は切り返した。
「儂が買ったのじゃない。儂の酒好きは界隈で知られておる。方々から戴くのだ。ありがたいことに」
 無明は合掌した。身についたごく自然な動作であった。
「酒が切れたらどうする」
「飲まぬ」
「酒やら煙草やらは、そう簡単に中断できるものではないが」
「儂は、水だけで十日間生きたことがある」
 無明は、酒を断つことも簡単だと言いたいらしい。一見、世俗を超越したかのようであるが、しかし、俊雄は、無明に悟道を求めるもなお生を彷徨う苦を見ている。
「無明さん、六〇年安保のときには、どこにいた」
「大阪だ」
「そのとき、おたくはすでに一所不住か」
「身上調査がおたくの趣味か」
 俊雄は、無明に逆襲されて苦笑した。
「一九六〇年といえば、わたしは高校生だった。晩稲おくてでね。世のなか、何を騒いでいるのかよく分かっていなかったな。関心は、同級生の可愛い女の子にあった。何とも情けない。それにしても、あの、どうなったろう。わたしが老いたようにあの娘も老いたのだろうな」
 俊雄はちびりちびり飲みながらも、コップ一杯の酒を干した。やや酔ったようである。
「儂は懐旧談は嫌いでな。六〇年安保のことを訊いたのは、あの敗北でこの国のその後が明確に決まったからだ。大群衆が御堂筋を埋め尽くしたあのデモ……。儂も高校生だった。デモに参加した儂は早熟なのだろうか。東京では国会前で女の子が殺された。女の子が殺されても儂らは負けた。いまも負け続けている」
 無明は残りを一気に飲み干すと、俊雄とおのれのコップに酒を注いだ。
「無明さん、おたくの適量は」
「ない」
「あれば、みな飲んでしまう口か」
「あればというが、あったことがない。おたくの訪れの直前にこの酒を戴いた。何かのえにしだろうな」
 無明は、二人して一升を空にする勢いである。
「六〇年安保から四十年。無明さん、おたくは、いまなお左を引き摺って生きているのか。かりにそうならば、稀有な存在というべきか。おたくの言う御堂筋を埋め尽くした大衆はみな老いて、わしらの若いころは安保反対とやったもんだ、と昔を懐かしむに違いない」
 俊雄の口もほぐれてきた。酔ったのであろう。
「儂には金がない。物を買いたくても買えぬ。たまに門前に米やら野菜やらが置かれている。酒もな。儂は押し戴く。それで命を繋いできた。冬になって雪に埋まると、儂は餓死を覚悟する。左を引き摺る余裕がどこにある」
「では、あえて訊くが、おたくはなぜ働かぬのだ。施しを受けるばかりでは能がなさすぎる。見たところ、おたくは頑健そうだ。おのれ一個の力でなにゆえ口を糊(のり)せんのだ」
 俊雄は口にしたあと、酔いにまかせて言いすぎたかと後悔した。無明の話を聞く場であって、論争する場ではない。
「五年前だった。こんな儂でも働いていたのだ。おたくの言うように、おのれ一個の力で口を糊していた。工務店の仕事を手伝ってな。儂は、これでも建築士の資格を持っておる」
 無明は一旦言葉を切ると、小皿を盆に乗せて立ち上がった。肴がなくなっていた。すぐに戻ってきて、小卓の上に置いた。新たな肴も同じ漬け物であり、同じ佃煮であった。無明はにやりとし、俊雄もまた哂った。俊雄は目顔で続きを促した。無明は一口含み、美味そうに咽に流し込んだ。
「不況になって、工務店が詐偽すれすれを働いた。家を大々的に修繕しないと倒壊しますよ、と客にたくみに持ちかけたのだ。結局、大掛かりな工事になった。しないでもいい工事だった。儂は工務店の取締役を詰(なじ)り、口論になった。その取締役が若いのを嗾(けしか)けて、儂に暴力を振るわせた。儂は応戦した。儂はそいつはおろか取締役も投げ飛ばし、叩きのめした。儂は若いころ柔道をやったのだ。それからだ。儂に変化が起きたのは」
「と言うと」
「『史記』伯夷伝に、暴を以て暴にうという言葉が出てくるな。あれだ。儂は、目的は手段を正当化するというテーゼに泣かされてきた。暴力というものが骨の髄から嫌いだった。ところが、儂がだ、理不尽なことに対して言葉で説得してきたこの儂がだ、暴を以て暴に易うことを躊躇ためらわなくなった。気づいたら暴力を振るっていたということがよくあった。外で働けば、毎日が理不尽なことの繰り返しだ。儂は恐ろしくなった。いずれ、警察の厄介になる。さすれば、儂の身元も割れるとな」
 無明の眸には、少なくとも俊雄を疑う光は宿っていない。
(身元が割れるとは、やはりこの男には何かあるのだ)
 俊雄は、面妖な気分で酒を口に含んだ。
 

 
 けたたましい鳥の啼き声がして、鳥影が窓外をよぎった。
「人の天地の間に生くるは、白駒はっくげきを過ぐるがごとし、というのがあったな」
 無明が荘子の一節を引いた。
「人の生は、鳥影の窓外を過ぐるが若し、とでも言い換えるかね」
「終わってしまえば、たしかに一生も一瞬だ」
「無明さん、あれはヒヨドリかね」
「うむ。やかましい鳥だ。おのれの縄張りに固執し、小鳥を蹴散らして恬として恥じることがない。人間にも似たようなのが沢山いる。儂はヒヨドリが大嫌いでな」
 無明は、好悪がじつにはっきりしている。
「この地なら、珍しい鳥がたくさんいるだろうな」
「おたくは鳥が好きか」
「閑人のバードウオッチングと冷笑されそうだが」
「ギャンブルなんかで時を浪費するより、よほどいい。儂は綺麗な鳥、可愛い鳥と言うだけで、鳥の名をよく知らぬ。地元の人がよく口にするのは、ヒガラ、ヤマガラ、コガラ、シジュウカラ、アオジ、ルリビタキなどか。儂でも知ってるウグイス、ムクドリ、ツグミ、メジロなどは常時、見かける。俊雄さん、久しぶりに話をしたから疲れた。少し酔ったかもしれぬ」
 無明は、両手を高々と挙げて伸びをした。
「龍仁寺の山号さんごうは」
「函館山」
「はっは。そのものずばりだな」
「そのものずばりだ」
「宗派は」
「曹洞宗」
 無明は、いつの間にかこちらの問いにまともに答えるようになった。
「じゃあ、只管打坐しかんたざだな」
「昔の坊主はな」
「いまは」
「只管遊興だ。一代ごとに甘さが増す。あれでは、おのれの身一つ律し得ぬ。衆生済度なんぞ、おこがましい。昨今、坊主に限らぬ話だが」
「遠からずこの寺は廃されるのか」
「住職が不在なのだ。もう廃されたようなものだ」
「本山はなぜ手当てせぬのか」
「だれも食えぬところに来たりはしない」
「しかし、葬儀があると困るだろう」
「寺がほかにないわけじゃない」
「すると、おたくのこの寺での役割は」
 聞けば聞くほど、無明の立場が分からなくなる。
「寺男なりに仕事はたんとある」
「本堂や廊下の拭き掃除とか、落ち葉拾いとか、そんなことか」
「うむ。頼まれれば、お経も読む」
「何と。お経もか。門前の小僧習わぬ経を読むというが、おたくは何でもこなすのだな」
「金ぴかの袈裟がなくてもいいのならば、いくらでも読む。儂のお布施はただだ。儂は僧侶じゃないからな。その代わり、米やら野菜やらを戴く」
「おたくのこの寺でのありようが見えてきた。無明さん、放哉じゃないが、おたくの一生は小説になる」
「無理だ。華がない。色がない。全編、灰色では読者が退屈する」
 無明は肴をほとんど摘ままない。真の意味で酒好きである。
「子どもがいるからには、結婚したんだろう」
「した」
「奥さんは病に倒れたのか」
「違う」
「交通事故か」
「違う」
「おたくのは、すべてが難解だな。とにかく、亡くなったのだな」
「うむ。死なれた」
「たまに娑婆に出ることは」
「ある。山から下りると喫驚びっくりする。爺さん婆さんに年輪を経た老熟というものがない。若いやつらはおしなべて不機嫌で、他人のことなんか知っちゃいない。若いお母さんが乳母車を押しながら煙草をスパスパ吸っていたりする。酷いのになると、儂の目の前で、わが子の頭を張り飛ばした」
「無明さん、学校や大学で何が起きているか、いくらおたくに語っても信じてもらえないだろうな。おたくの目撃した光景が家庭や学校をはじめ、この国のあらゆるところで日常茶飯事となっているのだ」
 俊雄がこの件を語り出せば、一日かかっても語り尽くせそうにない。退職後の非常勤講師の話を断ったのは、くたびれ果てたからであった。
「おたくの言うとおりなのだろう。翻って、儂らが幸せに暮らせた時代がそもそもあったろうか。儂が慨歎したとて、どうなるものでもないが……」
 陽射しが翳った。沈黙がしばらく支配した。
(鳴らない竹のことを問い合わせにきた。それが妙なことになった。この場の話はどこへ行くのか)
 俊雄はまた一口含んだ。路面電車や車などの下界の音が、この平穏な庵に途切れることなく伝わってくる。


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