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「北匈奴の軌跡 草原の疾風」第一章(1)

第一章 草原の子


 
 凹凸おうとつに富む砂と土と石塊いしくれの荒れ地は、はるか彼方へと続いていた。
 目に入るのは、乾き切った硬い砂と土と石のほかは、たまに地面を這う雑草とまばらに生える低木ばかり。
 左右を眺めても、振り返っても、母や父の姿はおろか人の姿とてない孤絶の世界であった。
 けるような暑さ。恐ろしいまでの射し。少年は、フードを鼻の頭まで引き下ろした。
 あまりのまぶしさに眩暈めまいがした。
 少年は目をつぶった。どんなに耳を澄ませても、母の声は聞こえてこない。少年は砂漠の真っ只中にいた。
 少年は、あらゆるものを死に追いやる砂と土の空漠の世界に取り残されていた。
 ふいに強風が吹きつけて、少年の顔に砂ぼこりを浴びせた。少年は、フードを口元まで引き下ろす。鼻がつまった。口で息をすると、砂が口のなかにまで入り込む。
 いったい何が起きたのか。なぜこんなところに独りいるのか。少年には分からなかった。
 少年は歩いた。立ちどまるならば、砂のなかにうずもれてゆくに違いない。
 砂が靴のなかに入り、歩きにくい。少年は泣かなかった。叫びもしなかった。母に二度と会えないことを知っていたような気がする。
 喉が渇いた。飲み物も食べ物も、ごくわずかしか残っていない。少年は、それが尽きると自分が死ぬことを知っていた。
 少年は、ひたすら歩いた。あの砂丘を越えれば、何かあるかもしれないと思った。けれども、砂丘を越えると、また砂丘があった。
 時折、風の音でもなく、砂の音でもない異様な音が聞こえた。音というよりは、あたりを切り裂く悲鳴、あるいは咆哮ほうこうといったようなもの。少年は、恐ろしさのあまり立ちすくんだ。
 砂とかさかさの土の世界に限りはなかった。歩いても歩いても、景色に何の変化も現われない。荒涼たる砂漠が果てしもなく続いていた。

 少年は最後の水を飲み干した。やがて、自分が足を運んでいるのか、足踏みしているだけなのか、それすらも分からなくなった。
 少年は、その場に倒れ込んだ。砂の臭いがした。少年は眠りに落ちた。陽光は、情け容赦なく熱波を少年に注ぎ、灼き殺そうとした。

 少年は目覚めた。
 馬や羊、山羊やぎの鳴き声がした。聞き慣れない言葉が飛び交っている。少年は、自分が木陰の寝床に横たわっていることを知った。
( だれが助けてくれたのだろう)
 そう思う間もなく、犬が駆け寄ってきて、少年の顔をめ回した。くすぐったさに、少年は声を上げた。
 起き上がろうとする少年に気づいた人々が、いっせいに駆け寄ってきた。さかんに話しかけるものの、少年には理解できない言葉であった。
 少年は与えられた水を飲み干し、食べ物を むさぼった。
 皆が皆、顔中かおじゅうに髯をはやしており、歌うような言葉を操った。
「おまえはだれだ。どこから来た。名前は」
 そんなことをたずねているに違いない。が、少年は、自分がだれであるか、どこから来たか、何という名前かを思い出せなかった。
 人々は、黙して語らぬ少年を取り立てて怪しみもしなかった。少年の顔貌かおかたちや肌の色が、自分たちとはおよそ異なっていたからである。
 少年は、そののち三旬( 三十日) 以上も寝て暮らした。快癒するまで、つきっきりで面倒を見てくれたのが、少年と同じぐらいのとしの少女であった。リンと呼ばれていた。
 少年は、リンからその地で生きるすべを教わった。幼い教師は心優しかった。少年は毎日、リンとともに薪を集め、火をおこし、湯を沸かした。馬に乗って羊の群れを見て回り、自分たちよりも小さい子どもたちの世話をした。
 少年は、半年でその地の言葉を話せるようになった。砂漠以前のことごとくを忘れていた。少年には、ジュアルという名が与えられた。
 ジュアルは馬や騎射に慣れた。言語の習得同様、長足の進歩を遂げた。けれども、狩猟になるとすべて的を外した。いつまで経っても、獲物を手にしなかった。
「わざと外しているのか」
 リンの父親ディガルが怪訝けげんそうにいた。ジュアルは首を横に振った。尤も、リンもいつも的を外した。リンの技倆ぎりょうは、水準をはるかに超えているにもかかわらず。
「ふたりは以心伝心か」
 ディガルは心中にわらった。砂漠で半死の状態にあった少年を救ったのは、ディガルであった。氏族長である。
「長旅のせいで、不覚にも馬上で居眠りした。その間に、わが愛馬が横たわる少年のもとに進んでいった。道からかなり外れた砂漠のなかだった。あの発見は奇蹟というほかはないな。ジュアルの持って生まれた運であろう」
 酒に酔うと、ディガルはよくこの話をした。リンはこれを聞く都度、ジュアルを見てしろい歯を見せた。三年余後、ジュアルはすっかりその地の少年になっていた。

 さらに数年経った。ジュアルに転機をもたらしたのは、英国人探検隊の来訪であった。
 男三人、女一人の一行は、びんに白いものが交じる隊長のほかは若者ばかりで、いずれも背が高く、とび色の髪をしていた。
 クリス・ブラウンと名乗った人物は、初老の厳めしい顔貌かおの持ち主であった。プロフェッサー・ブラウンと呼ばれていた。
 一行がジュアルを一目見たときの驚きぶりは、それから何年経っても部族のなかでの語り種となった。目を丸くした四人がジュアルを取り囲み、
「君は混血のようだが、どこから来たのかね」
「名前は何という」
「この氏族との関係は」
 などと、質問攻めにしたものである。
 ジュアルは、かれらの話す言葉の幾分かを理解したが、どうして知っているのかはさっぱり分からず、混乱のあまりディガルに救いを求めた。
 ロシア語を少し話せるディガルが、ロシア語で話しかけると、一行のなかで女の隊員が笑顔を見せて応じ、ようやく会話が成り立った。

 しかしながら、ディガルのロシア語では何ほどの話もできない。せいぜいジュアルはよそから来た子どもで、国やら親やら詳しいことは何も判らない、いまは自分たちの子弟であるといったことぐらいしか答えられなかった。
 探検隊は案内人を求めた。先へ進むことを急いでおり、車での移動で時間を節約したいらしかった。問われたディガルは、
「車はやめた方がいい。砂にやられてすぐに故障する」
 と、答えた。ブラウンは渋い顔つきになった。首を縦に振らない。氏族の大人たちは、
「本当はラクダが一番だが、三週間の行程、しかも砂漠を横断する大冒険でもないのなら、馬車に水と荷物を積み、残るは馬で行けばいい。馬が疲れたら、人は馬から下りて歩く。人馬一体がこの地の常識だ。それなのに聞こうともしない」
 と口々に語り、一行への関心をさっさと捨てた。
 ブラウンは隊員三人と話し合い、結局、折衷案を提示した。
「車が動かなくなったときの備えに、馬車一台と案内人一人を雇いたい」 
 と。
 ディガルはこの申し入れを受け容れた。
「ずっと昔、わしが子どものときにも同じようなことがあった。連中が苦境に陥ることが目に見えているのに、わしらが助けぬというわけにはゆくまい」
 ディガルは、厄介なことを引き受けた理由を氏族の者たちに語った。ディガルが案内人に指名したのが、ジュアルとリンである。
 リンは、これを知って真蒼まっさおになった。泣いて父に抗議した。
「何の心配も要らぬぞ。あの隊長は悪い男じゃない。わしの目に狂いはないからな。なんじはジュアルを助けねばならぬ。あの子がどこから来たのかを知る手がかりが得られるかもしれぬのじゃ。一行のジュアルに対する関心には、並々ならぬものがあった。そのためにも、なんじやジュアルは、あの人たちの言葉を学ばねばならぬ」
 ディガルは、リンに言い聞かせた。ずいぶん遅くに授かったひとり子である。
 他方、ジュアルは、探検隊と一緒に行くことを喜んだ。リンの同行も、はじめからそうなるものと決めてかかっていた。いつも二人して一人前なのである。
「いまだ子どもではないか。いったい幾つなのかね」
 ブラウンは、案内人がジュアルとリンと知って、おどろいた顔つきになった。若い隊員の一人は、こんな子どもたちが役に立つのかとばかりに口笛を吹いた。唯一の女性隊員がその男を叱った。
「二人とも十五歳だ。二人ともすでに一人前だよ。ジュアルは頭もいい。リンも負けていない」
 ディガルは氏族長の威厳を示し、探検隊は、ジュアルとリンを案内人として採用した。
 出立の朝、ジュアルとリンは互いにみつめ合った。言葉を交わす必要はなかった。


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