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君何処にか去る 第三章(2)


 
 柏木幾三によると、水道屋の親父は出水の因を突きとめかねて、
 ──無徳むとく君を呼んできてくれ。
 と、三人のなかで一番若い工事人に命じた。その若者が軽トラで飛び出していき、ものの十五分も経たないうちに戻ってきた。無徳なる人物が同乗していた。異なる工事現場で仕事をしていたのであろう。作業服が泥で汚れていた。
 幾三は、無徳が若いので驚いた。まだ三十歳にも達していない感じで、呼びにいった若者と二、三歳しか違わなさそうであった。痩せて小柄な躰つきは場違いなほどである。幾三は、もう少し年輩のプロがやって来るものと予想していた。
 無徳は状況を聞くと、あたりを見回して、池に定めた地点と建家の間に狙いをつけ、自身が小型重機を操って掘り進めた。それで当たりがついたのか、幾三に向かって、
 ──ご主人さんですね。坂下無徳と言います。ちょっとおたずねしますが、最近、お風呂の排水がよくないということはありませんでしたか。
 と、いた。
 ──あったとも。家内がいつも零してる。
 ──それで分かりました。犯人は風呂の排水と思われます。まことに申し訳ありませんが、風呂に水を半分ほどためていただけませんか。捨てるだけなので勿体ないですが……。
 ──かまわんよ。それで直るなら。
 幾三は、妻に浴槽に水を張るように頼んだ。無徳は風呂の背後に回り、風呂の排水桝を中心にパイプが剥き出しになるまでに掘った。これも自身が小型重機を操った。浴槽の下から桝までのパイプは、別にひび割れしていない。
 ──無徳君、異状はないようだが。
 水道屋の親父が心配そうに囁いた。
 ──見たところはね。ほら、パイプの奥の方に茶色のものがちょっとだけ見えるでしょ。あれが悪さをしているんじゃないかと……。
 無徳が指さした。水道屋の親父の肩越しに幾三も覗き込んだ。
 ──何だね。あれは。
 ──くすの根じゃないですかね。匂いが楠のようです。
 ──楠って。わが庭には、あの境界に一本あるきりだが……。
 幾三は、北側の空き地との境を顧みた。幾三の敷地は百五十坪もあって、楠から風呂まで相当な隔たりがある。そのときは眉唾ものに感じた。用意が整って、浴槽の栓を抜いた。水の流れる音がした。やがて、周りが水浸しになった。ところが、風呂の排水桝には一滴も流入しない。
 ──無徳さん、この水は浴槽の排水だね。そうすると、つまり……。
 幾三は絶句した。
 ──楠の根が浴槽の下まで侵入して排水パイプを脇に押しやり、若干の隙間を作ったようですね。いわゆる垂れ流しの状態です。
 ──君、よくこれが分かったね。感心したよ。垂れ流しの排水がわが庭の下に浸透し、池にしようとしたあの地点に溜まっていたということだね。
 幾三は、はじめて合点がいった。そうなると、家の土台が心配になった。水の浸食を受けて土台の下が緩んでいたならば、大事おおごとである。その心配を口にすると、無徳は、
 ──わたしが床下にもぐって点検しましょう。
 と、申し出た。その結果、ありがたいことに床下に弛みは見られなかった。幾三は、池の造成を断念した。これ以上、地所を湿らさない方がいいと無徳に忠告されたからである。その日と翌日の二日間で、風呂の浴槽下の根の除去と新たな排水パイプの接続工事が完了した。手際がおそろしくよかった。費用も思いのほか安かった。楠の根は至るところに蔓延はびこっていて、無徳は排水パイプとの接続部分を厳重にしたという。幾三は顚末を語り終えると、
「無徳君ってのは若いのになかなかの人物でしたな」
 と、手放しの褒めようである。
「ふうむ。それはよかったじゃないですか。しかし、楠の根が悪さをするとはね」
「いや、まったく。楠の木はあれで相当離れていますよ。それでも、木の根というのは、木の高さと同じくらいの長さがあるといいますからな。要するに、あの木が大きくなりすぎたのですな」
「まさか、伐るのではありますまい」
「はっはっは。あの根は水を求めて、遠路はるばるわが浴槽下に辿り着いたんです。表彰ものですよ」
「たしかに健気ですな。幾三さんのそういう考え方は好ましい」
「お褒めをいただいて光栄です。ところで、道友さん……」
「何ですな。あらかじめ断っておきますが、囲碁将棋はしませんぞ」
「困ったお人だ。わたしは、あなたと将棋を指すことなんぞ、三十年前から諦めております」
「はてな。三十年前といえば、わたしはまだ生まれていない」
「道友さん、その切り返しは聞き飽きました。もっとほかのにしていただけませんか」
「ううむ。この勝負、わたしの負けですな。で、何でしたっけ」
「わたしが言いかけたのは……。はて、何だったかな」
「幾三さん、すまんこってす。わたしが要らざること口にしたために」
「なあに、こいつがほんの老化ってもので。でも、何だったかな」
 幾三は首を傾げ、次いで苦笑いした。
「柏木先生、無徳さんのことじゃありませんの。ずいぶん感心なさっていらっしゃいましたもの」
 道友夫人が助け船を出す。
「それだ。かの無徳君のことです」
 幾三は手を打ち合わせた。
「そのよくできる若い子がどうかしたのですか。無徳というのは、世を忍ぶ仮の名でしょうな。反語じゃあるまいし、親がそんな名をつけるはずはありません」
「そうでしょうな。あなたの尺八にずいぶんせられていたようでした。仕事の合間に、あなたのことをあれこれ訊いてきました」
「ほほう。いや、わたしもね、あなたのお話を聞いて見込みのある子だと直観したのですよ」
 これを聞いて、幾三は肩をすくめてみせた。
「あの分では、いずれこの家を訪れますな。賭けてもいいです。必ずやって来ます」
「しかし、幾三さん、わたしも来る方に大枚を張ります」
「それでは賭けにならない。どうもあなたとでは、異なる惑星の人と話をしているような気がしますな」
 幾三は首を振り振り帰っていった。
 

 
 道友の妻は毎朝、パンくずを庭に撒く。スズメがやって来てついばむ。夫婦はそれを見るのが楽しみである。柏木夫人が真似るようになったので、両家は、今日は何羽来たと自慢し合うのが日課となった。
 柏木邸の方が断然広いので、どうしても負ける。つまり、スズメの数は柏木家の方が多い。勝率で言えば、五勝して十敗か。それが俄然、逆転した。数では負けるが、こちらにはスズメのみならず、ウグイスが交じり出したのである。
「幾三さん、あれは間違いなくウグイスです」
「ウグイスというのは、藪のなかから出ない鳥と聞いておりますぞ」
 幾三が向きになって抵抗する。
「お言葉ですが、図鑑で確認済みです。あれがウグイスでないならば、この世にウグイスは存在しませんな。いまに美声で啼きはじめるでしょう」
 翌朝、幾三が息せき切って駆け込んできた。
「道友さん、わが家にもウグイスが来ました」
「そうですか。ところで、幾三さん。メジロはどうですかな。ジョウビタキは……。野鳥というのは、どうやら狭い庭を好むようですな。何なら庭の取り替えっこをしますかな」
 道友は勝率を九勝して六敗、否、十勝して五敗ぐらいまでに高めた。やがて、ヒヨドリが小鳥たちを蹴散らすようになって、両家の隠微な競い合いはやんだ。
 そのころ、坂下無徳が道友を訪れた。学生時代に二年ほど琴古流尺八の経験があると言った。最初から弟子入りの覚悟で訪れたもののようである。
「しかし、君は尺八を持っていない」
 無徳のように二年の経験があって、尺八を携えてこないという者は、まずいない。道友は、すでにそのあたりに無徳の一般から外れる私生活を感じ取っている。
「わたしのは後輩に譲りました。そう安いものではなかったのですが」
「一時は尺八を断念したということかね」
「あのときは、生きるか死ぬかでしたので」
「つまり、躰以外はみな捨てたと言うのだね」
「はい。少々あった書籍も何もかも」
「ふうむ。再び尺八を吹きたいのならば、君はいま若干の平安を得たのだね」
「若干どころか何の平安もありません。たまたま先生の音色を耳にしました。ああいう音が出せたら、生涯の道連れになってくれるのではないかと……」
 道友は無徳が気に入った。
(幾三さんが褒めただけのことはある。肝が据わっている。よほど辛酸を嘗めたのだろう。この先も一匹狼で生きてゆくのだろうな)
 気に入った弟子にはつい厳しく接してしまうのが道友である。単刀直入に問い質す。
「君とこのK市を結びつけたものは」
「何もありません」
「いずれ去るのだね」
「そうなるでしょう」
「このK市にいつまでいるのかね」
 尺八の修得には時間がかかる。いくら猛練習しようと一定の時間が要る。熟成には時を要するのである。
「判りません」
「骨を埋める気はないのかね」
「わたし自身がその気になっても、何か事件が起きて去ることになるのです」
「虚無的なんだね」
「そのつもりはありません。またか、とわたしはいつも溜め息をついています」
「君の意志ではなく、いわば宿命といったものが邪魔をするのだね」
「どうも、そうとしか言いようがありません」
「わたしの手元にいい竹がある。鳴るか鳴らぬかは相性によるが、しばらく試してみるかね」
「はい。よろしければ」
 道友は例の鳴らない竹を取り出した。
(この無徳君ならば、あるいは鳴らせるかもしれない)
 あれだけ鳴り響いたにもかかわらず、翌日からは再び鳴らなくなっている。
「ずいぶん品格のある尺八ですね。光沢があって見るからに年輪を経た渋みがあります。先生、この竹は相当高価なのではありませんか」
 懐が寂しいのであろう。無徳は値段を気にした。
「高価かもしれないが、鳴らなければ無価値だからね。君と相性がいいようであったならば、そのとき値段の相談をしよう」
 道友は結論を先送りにし、無徳とともに「夕顔」を吹いた。初級ではあるが、奥深いので無徳の実力をみるに格好の曲である。何年間もブランクのある無徳は、楽譜を追いかけるのに懸命であった。が、何ヵ所か間違えたものの、手事の速さにもついてきた。二年余の経験の割りには力のあることを証した。それよりも何よりも、道友は心中に驚倒していた。鳴らない竹は、無徳に対しては意地悪をしない気まぐれぶりを発揮したのである。
「いい音だったではないか。どうだね、その尺八は」
「はい。甲音が鳴りにくいですが、わたしとは相性がいいようです」
 何も知らぬ無徳は、ビギナーズラックを愉しんでいる。
「慣れれば、もっといい音が出るだろう。しばらく君に貸そう。欲しくなったら買うといい」
「すでに欲しいです。先生、割賦にしていただけませんか」
「もちろんだとも。学生の弟子たちはみなそうしている。なかには、卒業してはじめてもらった給料で支払った者もいる」
 道友は、無徳と今後の稽古の段取りを決めた。無徳は道友夫人の淹(い)れたお茶を美味そうに飲んだあと、すぐに帰っていった。
「無徳君は、自分から話すタイプではないね。問われても余分なことは決して話さない。しかし、何でも分かっている。頭脳は優秀だね」
「わたくしもそう思いました。いまどき珍しい折り目正しい若者ですね」
「何があったのだろう。あのよき若者は人生を下りるしかなくなったのだ」
「聞いていて、気の毒になってしまいましたわ」
 道友夫婦は無徳について語り合い、その日はずっと両者とも沈黙勝ちになった。


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