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【エッセー】回想暫し12 北方星雲師

『常山紀談』巻之十八(森銑三校訂 岩波文庫)に次のごとき話がある。中院通茂なかのいんみちしげ公(江戸中期の公家)が青蓮院しようれんいんの宮であったろうか、幼い宮の後見をしていたとき、常に双六すごろくを遠ざけた。取り立てて悪いことではないが、つい慣れ親しんで空しく月日を過ごし、学問の志を怠る因となるゆえと。
 また、某人あるひとが尺八の名管を持ち来たり、人々が逸品なりと代わる代わる手に取っていたところ、通茂公がそれを見かけてだれがかような物をと、当該の尺八を柱に叩きつけて砕いた。公にとっては、尺八も、碁や双六と同類のものであったらしい。
 私はこれを読んで少なからず忿いかりを覚えた。学問とは四書五経であろうが、いくら万巻の書物を読もうと、彼らが一音成仏を解することはまずあるまい。儒教の墨守ぼくしゆが一管の尺八に優ろうかと。
 思えば、琴古流尺八に親しむようになって六十年。尺八との長いつきあいは、大学の邦楽部入部から始まる。入学当初の某日昼どき、桜咲く城内をぶらついていると、琴と尺八の音色が聞こえてきた。邦楽とはそれまで無縁であったから、その雅な音に魅された。男女数人の学生が芝生の上で合奏していた。入部勧誘の一つの手法であろうが、何とも味わいがあった。
 私は、彼らの合奏が終わったところで、だれか係りの人はいないのかとあたりを見回した。桜の木陰に学生が一人、折りたたみ机を前に座っており、パイプ椅子が二脚置かれていた。セールスの世界では能弁よりも訥弁とつべんの方が成績がよいらしいが、この場は訥弁どころか沈黙による勧誘であった。やむなくこちらから声をかける。
「邦楽部の方ですか」
「そうです。どうぞお座りください。入部をご希望ですか」
「そういうわけでもないのですが、いい音色だなあと思って……」
「それはどうも。そう言ってくれる新入生は滅多にいないんですよ。やるとするなら尺八ですか琴ですか」
「尺八です」
「ご経験は」
「ありません」
「尺八には二つの流派があります。一つは琴古流と言って古曲のみを吹奏し、もう一つは都山流と言って尺八という楽器を駆使して現代音楽をも追求しています。なかには尺八とジャズなんて取り合わせもありますよ。両派に属するというのはふつうないです。尺八そのものが異なりますし、楽譜も違えば演奏法も違いますから。入部したらそれぞれの師匠について稽古してもらうことになります」
「虚無僧の尺八はどっちの派ですか」
「あれは特殊なので、琴古流なら吹けないことはないですが、別物と見なした方がいいです。よろしかったら、お名前と住所をご記入ください。後日電話します」
 いたって紳士的で押しつけがましさがない。入部してもよいかと思案しつつ名簿の空欄に記入した。すでに何人かの名前が書かれてあった。後日、電話があり、入部から尺八師匠宅(兼道場)訪問まで一瀉千里いっしゃせんりで事が運んだ。私は琴古流を選んだ。

 北方星雲きたがたせいうん師は、一八九〇年(明治二十三)九月金沢の生まれ。そのとき、七四歳であった。頭髪が豊かで白毛が少ない。ずいぶん若く見えた。顔貌は整い、昔はさぞかしと思わせる美男であった。
 星雲師は十七歳から尺八を始め、熊本中学に入ってからは尺八三昧の日をおくった。二十三歳のとき、京都に移ってよき師匠を探し求め、二年ほど費やして井上重美師を発見した。京都中を歩いてついに見つけた師であった。十年間、みっちり鍛えられたという。星雲師は、明治の書壇で重きを成した北方心泉しんせん上人の三男であった。金沢卯辰山に心泉上人の「麟凰亀龍」の書碑がある。
 星雲師が正座して尺八を下唇に当てると、ぴたりと形が決まり、まるで刀を正眼に構えた侍のごとくであった。気が合うと言うのか、師弟でありながら祖父と孫のようなつきあいになった。星雲師には子がなかった。「おれのところの米櫃が空になるから、月謝を少しあげるように手配してくれ」と、頼まれたこともあった。戦前戦後の邦楽界における面白い話をたくさん聞いたけれども、惜しいかな、たいがいは忘れた。
 星雲師はその性、温厚。稽古において手厳しく叱られたことはない。最初のころは尺八は鳴らず、楽譜は謎めいた古文書のようで、当惑の連続であった。それが存外に早く吹けるようになった。星雲師は熱心、かつ優秀な指導者であった。私たちは星雲師の芸の深さに胸を打たれた。
 稽古はどんどん進んだ。習うべき曲は地唄と箏曲併せて七十余もある。一曲一曲を味わっているゆとりはなかった。星雲師は新しい曲に入る都度、これがいかに名曲であるかを感嘆措く能わずといった体で紹介される。こちらはその直前にやった曲をはや忘れようとしているのに。
──眠たい邦楽。何を聴いても同じ曲。
 外部からはずいぶん揶揄されるが、いくぶん当たっている。しかしながら、すこしくその世界に馴染むと、深みのあるじつに優れた音楽であることが分かる。地唄には夕顔、浮舟、葵の上、青柳など、源氏物語から題材を採った曲が幾つかある。吾妻獅子は伊勢物語から、八重衣は「衣」が使われる和歌五首をそのまま用いてなど、三味線と琴と尺八による三曲合奏は、日本文化の伝統の一翼を担って久しいのである。星雲師は、
「だれでも吹けるようになります。音楽的才能はなくてもいいです。稽古をきっちりしていけば上手になれますよ」
 と、よく言われた。途中で投げ出す弟子は滅多におらず、みながよき吹き手になった。同学年のK君のような凄いのもいた。彼の辞書にはミスという文字がなかった。邦楽部のメイン行事である定期演奏会の稽古から本番まで、緩急の拍子の取り方は彼に合わせれば、すんなりいった。じつに貴重な存在であった。彼がたまたまいないときの糸方との稽古では、ミスが続出した。糸方とは若い女性、しかも加賀美人ばかりである。すこぶる情けなかった。
 学生時代の四年間で全曲の稽古を終えるのはかなり厳しかった。医学部の六年間がちょうどよいと、星雲師はよく口にされた。卒業後、金沢に残る弟子はほとんどいなかった。それゆえ、星雲師は稽古の進捗を早めたのであろう。されど、星雲師の「残月」を知らずして去ってゆく者の方が多かった。 はなはだ残念としか言いようがない。「残月」は若くして逝った女性を哀悼する曲であるが、星雲師の「残月」には凄みがあった。いつ聴いても躰が震えるほどの迫力があった。
 私自身は、辛うじて全曲の稽古を終えることができた。星雲師は、
「これであなたはこれからの一生、何が起きようと畏れることはありません。尺八を吹けば心がからりとれます」
 と、おっしゃってくださった。
 星雲師とのおつきあいで、私が唯一残念に思うのは尺八本曲(本来の曲)を学べなかったことで、三曲合奏では三味線と唄が主であり、琴が二番手、尺八は三番手の脇役にすぎない。本曲を吹きたいと望むのは、もちろん私だけではなかった。が、星雲師は、
「本曲は伝承がいい加減なので、作曲されて以降、元の曲がどれくらい変化したことかを考えると、教える気にはとうていなれませんね。外曲(尺八以外の楽器の曲)でも、「残月」や「八重衣」のレベルに達すれば、尺八の真髄を窮めることができます」
 と、本曲の稽古をきっぱり否定された。そのとき、私は伝言ゲームを想い浮かべた。次々に伝言してゆくと、最初と最後ではまったく違う内容になっているというのは、だれもが一度や二度は経験していよう。それを思うと、星雲師の言は尤もと認めざるを得なかった。しかし、せめて一曲だけでも習いたかったと未練が残った。
 星雲師は書に優れていた。全曲の楽譜を手書きされ、日光写真を利用して弟子用の楽譜を拵えた。糸方の旋律が見やすく並列されていて、合奏中、半拍子ずれているなとかすぐに分かる優れものであった。星雲師は尺八の製管にも努力された。弟子たちの竹は、ほとんどが星雲師製管の逸品であった。
 大学の邦楽部は名称を変えていまも活動を継続しており、県議会議員盛本芳久氏が星雲師の衣鉢を継いで、学生を指導されている。弟子には女子学生もいるのだとか。星雲師亡きあと、楽譜原版の保存に尽力されたのも盛本氏であった。星雲師の志は逝去後四十年余を経た現在に至るも、金沢の地で生き続けている。嬉しい限りである。

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