理不尽
社会へ出る者へ
日本で中学生のサッカー部の顧問をしていたとき、サッカー部の部長がこう言った。
「なんで初戦で優勝候補と戦わなくてはいけないんだ。くじ運が悪すぎる。こんなに練習してきたのに。あまりに理不尽だ。」
思い返せば自分自身も人生の中で多くの理不尽を経験してきた。そして社会に出て生活している人の中で理不尽を経験していない人はいないのではないだろうか。
つい救いの手を差し伸べたくなってしまうが、厳しさや冷徹さが結局は1番の協力や優しさなのではないだろうか。もちろん時と場合にもよるが。
そもそも人は平等ではない。
家庭環境や親の職業、収入は子どもにはどうすることもできない。
親ガチャという言葉もあるくらいである。
生まれ持った時からハンディを抱えているものはいるし、能力や容姿に差がある以上、優劣が生まれるのは当然である。
そもそも日本人に生まれた時点でアフリカ人の運動能力には敵わないだろう。骨格や筋力が違うのだから。
みんな同じと教えてはいけない。
みんながみんな平等ではないこと。理不尽な事は存在することを知らなければならない。
そうしなければ、社会の荒波にのまれ、自分の力が通用しないとわかるとすぐに自分の殻の中に逃げてしまうだろう。
成長の機会は常に試練とともにある
年中快適なエアコン、無菌状態、居心地の良い生活だけではだめなのだ。
だからこそ反抗期がある。
ぬるま湯では親から離れられない。
ある程度家も学校も居心地が悪い方が自立を助ける。
小さな失敗や失望を繰り返して少しずつ力をつけていかせることが必要なのではないだろうか。
学校や社会であえて苦しいことを経験させろということではない。
だが、世の中には納得のいかない理不尽なことがたくさんあることは知っておくべきだろう。
もちろん、本人の努力だけではどうにもならないこともある。
気軽に「頑張れ」、「何とかなる」とは言えないような苦しい状況にいる子どもたちがいたのも事実である。
しかし、その理不尽は将来自分をみつめる大きなポイントとなる。
負の体験を恐れるな。嫌なことを経験すべき。挫折が人を育てる。
上手くいったこと、上手くいかずに失敗したことでは、失敗から多くを学ぶはず。子どもには失敗をさせるべき。ずっと居心地がよいと成長しない。
一生懸命努力したが志望校に不合格になってしまうこともある。
自分のミスで試合に負けてしまうこともある。
好きな女の子にふられてしまうことだってあるのだ。
しかし大切なのは、それに向かって努力し、真剣に取り組んだという経験である。
自分の人生経験が自分をつくる
結局、自分で経験しないとわからないのである。
勝利を目指してたくさん努力した日々。結果が出なかった時の悔し涙。
自分が成長したことで見えた新たな景色。さらなる高みにいる別次元のような存在を知ったときの絶望。
失敗しても起き上がる経験が必要である。苦しくても辛くてもファイティングポーズをとらなければならないこともあるのだ。
だから社会で求められるもの、こと、考えを身に付けさせていかなくてはならない。
これからの社会は予測ができない。だからこそ、必要なのは理不尽な出来事に立ち向かう気持ちや姿勢なのではないだろうか。
その経験は自分から挑戦し、頑張った者にしか得ることはできないのである。
サッカーイタリア代表のロベルト・バッジョはW杯でPKを外して試合に敗退したときにこう言った。
「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気があるものだけだ。」と。