文章と声と
昨日のnoteで、こんなことを書いた。
私の母も、高齢になって、あまり出かけなくなったり、友達と話すことが少なくなったことで、家族に話すしかないのかなと思っている。
姉も友達も少なく、外で誰かに聞いてもらうことは、少ないかも。
聞いてくれる友達が多ければ、満たされるのかもしれない。
でも、聞いてくれる人って、なかなかいなかったり。
それでも、誰でもいいから話したくて、同じことをいろんな人に話していたり、自分のことだけを聞いてほしい人はいると感じていて。
ただ、もしかしたら、興味のない話を聞かされて、苦痛に感じる人もいるのではないかと思う。
自分の思いや考えを言える場所。
私にとってのnoteは、そんな場所になっていたかもしれない。
自分の感じたことを自由に書く。
そして、noteでは、会ったこともない、誰かの文章を読む。
書いて読んで、満たせていると思っていた。
いゃ、今までは、それで満たせていたのだと思う。
人柄が見える文章。
自分の欲や、心を満たそうとするスキ。
noteを始めて、感じていることは、いろいろある。
でも、私の想像である。
最近感じるのは、自分の想像が、本当のその人を見ることを邪魔していると、感じている。
文章を読んだだけで、その人が分かるわけがない。
その人の一部分でしかないのだ。
やっぱり、声を聞くこと、顔を見ることで、もっと知ることが出来るんじゃないかな。
そんなことを思う。
私は、書くことだけで、満足できなくなってきているかもしれない。
だから、話したがっているのかも。
読むだけでは物足りなくなっているかもしれない。
だから、会って話したくなっている。
それは、noteに書くこと、読むことで、自分の考えていることや夢も、以前よりもクリアになってきたから。
だから、誰かに話したくなったり、聞いてほしくなっているのかもな。
実は、話したがりという部分に気づいてしまったし。
だから、文章で言葉にするだけではなく、言葉を声に出してみるのは、なんて考えてみたり。
文章プラス声で、自分らしさが何なのか考えてみたいかも。
文章だけではなく、自らの声で話せる場所を、自分自身に作らなければいけないような、そんな気がします。
もしかしたら、言葉を声にすることで、自分を満たせるのかもしれないなんて、想像しているのです。