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ASDにとってネットは『先生』だった

わたしはASDである。しつこいくらいに主張するがわたしはASDだ。(現状「何も成し遂げていない」人間にとっての僅かなアイデンティティなのだ、生暖かく受け流していただきたい)

あくまで一個人の感想だが、女性社会とASD気質はすこぶる相性が悪い。その傾向は若年層であればあるほどきつい。大人になれば所属するコミュニティはいくらでも選択できるが、義務教育期間中にそんな自由などない。そこに学校があるから行け、以上、だ。ダイバーシティなどというしゃらくさい言葉もなく、発達民がまだ未発見だった平成初期時代に「なんかよく分からんけど変な奴」という肩身の狭さにただただ戸惑っていた。

みんなと仲良くなりたくて見様見真似で他の女子と同じように振舞おうとしても生来の特性を隠し切れずに結局浮いてしまう。「どうしていつも私は一人になってしまうのか」と人付き合いの本を読んだり、友だち同士で楽しく遊んでいる集団の横を足早に通りすぎる日々だった。


発達特性は遺伝故、わたしの両親も発達傾向が非常に強く(父:ASD、母:ADHD)社交性は低かった。母は生家から遠く離れた慣れない土地で孤育てしていたせいか、毎日金切り声をあげる暴君と化し、反面教師の役割は果たしたものの、両親から人としてのまともさを学ぶ機会は皆無に等しかった。


人との付きあい方が意味不明すぎて足掻き苦しんでいた2000年代に我が家にネットがやってきた。ネット回線がつながり、これ幸いとIEで「人付き合い」を検索しまくった結果、ほどなく2ちゃんにたどり着いた。そこには対人指南書には書かれていない具体例が山ほど載っていた。大量の文字情報に耽るなかで人づきあいのパターンを自分なりのペースで覚えることができた。有志で人付き合いのコツをwikiにまとめてくれる方々もいた。本当にありがたかった。

今は完全にすたれてしまったがAA(アスキーアート)文化も自己を客観視する手助けとなった。2ちゃん全体を貫く自己も他者も嗤いに変える「オマエモナー」文化のおかげで自己憐憫の沼に堕ちきらずに済んだと感謝している。

ネットと出会い「たとえマイノリティであっても一人じゃない」と微かでも世界とのつながりを覚えられたことはわたしにとって貴重な体験だった。そしてそれは今後も続いていくように思う。

強い孤独を抱えていても「CQCQ、誰か聞こえていますか?」と世界に投げかけることを続けていればいつか声は帰ってくる。文字情報ですれ違った多くの他者に助けられつつ今日も今日とて行く。



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