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倉俣史朗のデザイン 記憶のなかの小宇宙@世田谷美術館

ものごとを、興味のある/なしで判断するのはとんだおっちょこちょいのすることだ。

この世の中には、ただ、興味のあることとまだ興味の糸口を見つけられずにいることがあるにすぎない。

亡くなったじいちゃんの遺言である。うそです。


というわけで、興味の糸口を探すべく、冬にしては暖かな午後に世田谷美術館を訪れた。

世田谷美術館ではいま、約10年ぶりという倉俣史朗の大規模な回顧展がひらかれている。

正直、倉俣史朗ときいても、透明のアクリルの中に赤いバラの花が浮かんだ椅子《ミス・ブランチ》くらいしか思いつかない。

いかにも80年代っぽいキッチュなデザインをするひと、そんな漠然としたイメージを抱いていた。

結論からいうと、この「倉俣史朗のデザイン――記憶のなかの小宇宙」は2023年にみたなかでも個人的には一、二を争う刺激的な展覧会だったし、なにより倉俣史朗に抱いていた80年代の徒花(あだばな)といった印象(ひどい言いよう)がまったくの誤解であったことにも気づかされた。わざわざ行った甲斐があったというものだ。


たとえば、展示された作品のなかにガラス板を接着してつくった《ガラスの椅子》がある。

ぱっと見、奇抜という以外これといって興味の惹かれないデザインだ。

冷たそうだし、どうかんがえても極上の座り心地を得られそうな椅子ではない。

なにより、体重をかけたとたんパリンと音をたてて割れそうな恐怖感がある。

どうぞお座りくださいと言われたら全力で拒みたくなるような、そんな椅子だ。


しかし、じゃあ、そんな椅子とはいえないような椅子をなぜ倉俣史朗はわざわざつくったのだろう? ユーモア? それとも奇抜なアイデアで注目をあつめようという中2病?


いや、そうではない。倉俣史朗は、ただの椅子をつくろうと思ってこの《ガラスの椅子》をつくったわけではない。


彼は、人間が「引力」に支配された存在であるという事実を自覚させるためのいわば《装置》としてこの酔狂な椅子をあみだした。


じっさい、ふだんぼくらは自分が引力に縛られていることについて無自覚だ。


ところが、ひとたびこの《ガラスの椅子》に腰をおろそうとしたとたん、ガラスが割れて尻餅をつくのではという不安とともに、まるで目に見えるものかのように引力の存在を感じずにいられない。


そういえば、最近読んだ村上春樹の小説にこんな一節があったのを思い出す。

この街では人は影を持たない。影を棄てたとき初めて、それが確かな重さを備えていたことが実感される。普段の生活で地球の重力を実感するのがまずないのと同じように。

村上春樹『街とその不確かな壁』


いっぽう、いったんこの《ガラスの椅子》に腰をおろしさえすれば、まるで宙に浮かんでいるような、つまり引力から解放されたかのような格別な体験をえられるだろう。そう、倉俣は言う。

彼は、引力を実感させるとともにそれから解放される仕掛けをこの《ガラスの椅子》にほどこしたのだった。

また、展示のなかにはキャスターつきの一連の「引き出し」があった。

引き出しは長方形をしているものという常識によらず、それらは湾曲していたりピラミッドのようなかたちをしていたりする。

キャスターがついているのは、家具は壁に沿って置かれるものという常識をくつがえすためである。いまここにある家具は、もしかしたら明日はあそこにあるかもしれない。

機能性という点からすれば家具としては失格だが、そうすることで、倉俣史朗は人間にとっての使い勝手のよさという呪縛から家具を解放しようともくろんだ。


使うことを目的としない家具。結果として家具であるだけの家具――倉俣自身のことばだ。


ほかにも、この展覧会では7本の針をもつ時計や照明のような椅子(椅子のような照明?)といった“キッチュ”なオブジェの数々をみることができる。


モノから用途や役割、常識や因習を引きはがしてしまっても、それはなおモノとして存在しうるか? そんな哲学的な問いがその根底には横たわっている。


商業施設の空間デザインから出発した倉俣史朗が、高度消費社会の極みともいえるバブル期の前夜にこんな切実な問いをもって作品を制作していたとは驚きというほかない。

彼をまるで高度消費社会の申し子のように思っていたぼくは、その不明を恥じずにはいられない。


さて、では冒頭に名前を挙げた《ミス・ブランチ》はどうだろう?


すくなくとも、《ガラスの椅子》をはじめとする作品とくらべたらずっと甘美で夢見心地に感じられる。

自分を縛っている引力から自由になりたいという切実な願いは、とうとうこの《ミス・ブランチ》で「美」にまで昇華されたといっていい。美は機能であると倉俣は言ったという。

重力から解き放たれてバラの花とともに宙空に浮かぶための椅子という意味で、《ミス・ブランチ》はたしかに倉俣史朗がようやくたどり着いたひとつの答えだったかもしれない。


腰かけたわけでもないのに、会場に並んだ《ミス・ブランチ》を眺めているうち平衡感覚をうばわれたかのような不思議な感覚にとらわれたのは、あるいは倉俣史朗の巧妙な仕掛けにまんまとはまってしまったせいかもしれない。

《ミス・ブランチ》にスポットをあてた記事↓

展示レポート 主要な作品の写真が多数掲載されている↓

世田谷美術館ウェブサイト 
世田谷美術館の終了後は、富山県美術館、京都国立近代美術館を巡回する予定↓

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