普通で最後のラーメン
何をやっても上手く行かない場所というのは、多分あると思う。
働いていたレストランバーからの帰り道にも、そんなビルのテナントがあった。
歩道の広い通りに面したガラス張りの一階。
繁華街のメインの軸からは少し外れてはいたけれど、決して人通りが少ない訳じゃない。
周囲にはオフィスも沢山あるし、テナントは広く古びてもおらず、建物の脇を走る通りには有名な飲食店がいくつもあった。
でもなぜかその場所で店は上手くいかない。
長くても一年ちょっと。早ければ半年も経たずに。
記憶が正しければオープン日のチラシを表に貼り付けたまま、次の週には無くなっていた店もあったと思う。
一時。
その場所にラーメン店が入っていたことがある。
長浜系の細麺トンコツ。
味はごくごく普通のラーメンで、具材に特徴があるという訳でもない。
替玉が100円で、頼むと平たいざるで湯切りした麺にパラパラっと刻んだ白葱を乗せてカウンター越しに丼に入れてくれた。
当時僕が感じた特徴と言えばそれくらいだ。
確かラーメン一杯550円に替玉が一回で650円。
見習いに毛の生えたバーテンダーにとって、それは決して気軽な晩御飯ではなかったけれど、ある時期僕は毎日そのラーメン屋に通っていた。
コの字になったカウンター席の向こうには、店長らしきおじさんと、タオルを目のギリギリ上まで巻いた、茶髪と言うよりほとんど黄色い髪の若者。
僕の行く朝五時という時間には、他のお客を見たことはほぼない。
おじさんはいつも奥のパイプ椅子に座ってラジオを聞いていて、黄色い若者は一体何が忙しいのか僕しかお客の居ない店内をいつも何がしか動き回っていた。
替玉の分までいっぺんに食券をカウンターに乗せる。
若者は黙ってラーメンを作り、僕も黙って食べる。
もうそろそろかなと思ってふと顔を上げると、いつも一発で黄色い若者と目があった。
小さく頷いた若者は、一分もかからずに硬めに茹でた細麺を白葱パラパラで丼の上へと素早く運んだ。
奥のおじさんは声も聞いたことは無かったし、黄色い若者にしても、帰りしな僕の「ご馳走さまでした」に「したっ」としか聞こえない返事をする以外には話したこともない。
誰かと話し続けるか、または会話の必要のない空間を維持し続けるか。
一晩中そのどちらかにいる僕は、この限界を超えて削ぎ落とされた「店」と「客」との関係が心地よくて堪らなく楽だった。
そして何より、無言でラーメンを作る黄色い若者の動きを見ているのが好きだったんだと思う。
「マズイ。こんなマズイの飲んだことない。」
そう言ってカクテルを突き返された日も、僕は朝方の帰り道、そのラーメン屋の戸を開けた。
サラリーマン風の二人連れは、店に来た時からひどく酔っている様に見えた。
僕はオーダーの通り二杯のロングカクテルを作り、ネクタイを緩めた男の方が一口目を飲むなり僕にそう言ってグラスを押し出した。
「君さ、これちゃんと味見した?残り、自分で飲んでみなよ。」
連れのスーツ姿の男が「やめろよ」と諌めたけど、緩めたネクタイを完全に引っこ抜いた男は、カウンターに両肘をついて顔を僕に近付けた。
「いくら?これ。金が取れる味かどうか、飲んでみろって。なあ、飲んでよ。」
バーテンダーにとって、作ったカクテルを飲んで貰えないのが最低の評価だと思っていた。
だから、突き返されたそれを自分が飲むという行為に、感情が追い付かない。
でも僕は、そのカクテルを飲んだ。
味なんか、しなかった。
「どう?お金取れる?プロの味って言える?」
味はしなかった。だから何と答えていいか分からない。
「いい加減にしろって。」
連れのネクタイをしている方がカウンターから男を引き剥がし、千円札を一枚グラスの脇に置いた。
まだ何かを騒いでいる声は聞こえたけど、それが誰の声だかは分からなかった。
僕は味のしなかったグラスを握ったまま、ただ黙って立っていた。
閉まる扉に向かって、チーフが「失礼しました。」と言うのだけが、いやにはっきり聞こえた。
こんな夜でも食欲があるのは不思議だ。
体は失った分を補填しろと言う。
心がどうかは知らない。普通のラーメンで補えるとも思えない。
券売機の前に立ち、いつものようにラーメンと替玉を一枚ずつ。すこし迷ってから生ビールのボタンも押した。
一枚多い食券に黄色い若者は反応するかなと、少し面倒な気もしたけど予想通り全く何の反応もなく、カウンターにジョッキは届いた。
半分がたを一気に喉に流し込む。
ありがたいことにビールはビールの味がしたけど、途端に力が抜ける気がして、僕はジョッキを底の形についた水滴の上に置いた。
カクテルが残って帰ってくる事はある。
話に夢中だったり、急なお会計だったり。
そのひとくち分残ったグラスは、毎回少しずつ僕を傷付けた。
でも今夜僕を打ちのめしたのは、そんな事ではない。
あからさまに酔った挙句の、因縁めいたさっきの男の態度に傷付いたのは、僕がもともと持っていた僕自身のプライドだった。
積み上げてきたと思っていた、バーテンダーとしてのそれではなくて。
チーフも店長も。その後何にも言わなかったけれど、取り繕いもしない空気は余計に僕を責めた。
いや、責めているんだと思い込んだ。
ラーメンはいつも通り普通の味がした。
特徴もなく、別段感動もない。
それが何より僕をほっとさせた。
麺を啜っている間だけ無心に、だからあっという間に丼の底を手繰る箸に手応えは無くなった。
顔を上げる。
誰も居ないカウンターの下をほうきで掃いていた黄色い若者とは、やっぱり目が合った。
平たいざるに茹で上がった麺、パラバラと白葱を乗せて、替玉は僕の丼にいつも通りに入った。
「お客さんは、夜ですか。」
かすかな湯気に被せた頭に降ってきたのが、黄色い若者の声だと気付くのに一瞬間が空く。
何となく想像していたより随分と甲高い少年の声で、顔を上げた僕の目を真っ直ぐに見ながら若者は続けた。
「こないだ、向こうの通りで見かけたんです。バーコート着てたし、そうかなって思って。」
返事を、したくはなかった。
その瞬間に任意の誰かではなくなった僕が、どんなに上手く会話が出来たとしても、自分勝手に思い描いていた関係性は今きれいに壊れて吹き飛んでいた。
しかも、こんな夜に。
これ以上がっかりしたくなかったし、腹を立てるエネルギーもない。
「まあ、そう。」
もう一度うつむいて、ラーメンの丼を見る。
さっきまで確かに四割程は残っていたはずの食欲は、どっかに消えていた。
「バーテンってカッコいいですよね。自分もなりたいんですよ。」
バーテンとはバーテンダーの略称だけれど、その成り立ちからすればほとんど蔑称に近い。
だからバーテンダーは誰も自分の職業をバーテンとは言わない。
そんな無関係の人間からすればどうでもいい事にまで、僕は急に腹を立てていた。
その八つ当たりそのものの怒りが、さっきのサラリーマンとどこも違わないことに気付いたまま、それでも僕の口からは醜い言葉がこぼれた。
「そんな甘いもんじゃないから止めた方がいいよ。」
手付かずの替玉を残したまま、僕は席を立つ。
前払いで良かったと、そればかりを考えながら店を出る時、黄色い若者の「したっ。」が聞こえたかはわからない。
僕は帰り道のルートを変えた。
あの晩店に居なかったオーナーが、突き返されたカクテルの話をしたのはたっぷり一月も経った後だ。
暇な平日の早い時間。いつもの様にカウンターの端に座りマンガ雑誌を読んでいたオーナーは、ふと思い出したかのように口を開いた。
本当にふと思い出しただけかも知れないけど。
「何だっけ。お前が突っ返されたカクテル。それ二杯作ってみて。」
ものすごくマイナーなカクテルじゃないから、普段なら月に二、三回はオーダーがある。
幸いな事にこの一ヶ月間一度のオーダーも無かったと言うのは嘘で、二度あったオーダーがたまたまチーフに当たっていたのを僕は知らない振りをしていた。
手順通り酒を入れ、慎重に氷を選び、バースプーンをグラスに滑り入れる。
誉めてほしい訳じゃない。一緒になってあの日の出来事に怒って欲しいわけでもない。
悔しかったのはそれじゃないはずだった。
だからせめて、バーテンダーとしての仕事の評価だけを、僕は待った。
「手順はまあ普通。味も、普通だな。」
それからオーナーは、お前も飲んでみろと顎を振ってから僕がグラスに口をつけるのを待って言った。
「あのな、普通ってのは普通にお金を貰えるってことだ。店長やチーフと同じ価格で店に出せるって意味だ。それは簡単な事じゃないと思うけどなあ。」
一ヶ月間振りに飲んだそのカクテルは、普通のいつもの味がした。
そうだろうなと思っていた通り、久し振りに見るラーメン屋だった場所は、空テナントになっていた。
地方都市とは言え、何百と店のある繁華街で名前も知らない黄色い若者がバーテンダーになったかを知るのは、ほぼ不可能だ。
あの晩、僕は別に間違ったことを言った訳じゃない。
僕だってまだ、そうなれてるかなんて怪しいもんなんだ。
ただ、残してしまったラーメンの事だけは、出来ればいつか謝りたいと思う。
僕の日常にあった、ごくごく普通のラーメン。
八つ当たりを謝れるかどうかは、今はまだ微妙なところだ。