猫っ毛の彼
私の前の席に座る男の子の髪の毛が、見たことがないくらいふわっふわだと気付いたのは、指定された席に座る生活が始まって1週間が経ったくらいの頃だった。
たまたま彼がワックスを使わずに登校しただけなのに、その髪質に気付いた瞬間、名前も知らないその男の子のことを、急に知りたくなった。
なんとなく観察していたら、
遅刻をしない日はすこしワックスをつけていること。
ギリギリで駆け込む日はワックスをつけずに登校していること。
いつもつるんでいる男の子3人組があること。
そんなことがわかった。
ある日、ワックスをつけていない時の髪の毛があまりにふわっふわで、堪えきれなくなって声をかけてしまった。
「ねぇ、髪の毛すっごくふわっふわだね。触らせて」
「え? うわっ」
一般的なモテテクとは程遠い不器用な声がけから、いきなりの髪タッチ。
その時は、彼のふわふわの髪にしか興味がなかったのだから仕方ない。
「君の髪、すっごく柔らかくてずっと触っていたくなる」と伝えたら
「猫っ毛だからすごく嫌い」と返す彼。
「もったいない!すごく素敵なのに」と伝えるけれど、受け入れない様子。
私はたった一度のこの会話で、この席で過ごす残り3ヶ月をかけて、彼が自分の髪を好きになってもらえるようにしたいと思ってしまった。
そんな私の独りよがりの決意をよそに、彼がパーマをかけて登校してきた。
「どうして!??」と悲鳴をあげる私に
「猫っ毛だからこうしないとだめなの」とぶっきらぼうな返し。
大好きだったペットが死んだかのように嘆く私を見て、呆れる彼。
「俺はこの髪が嫌いなんだってば」
なんて悲しい言葉だろう。私はこんなにもあなたの髪が好きなのに。
彼は自分を肯定するものを拒絶してばかりだ。
3ヶ月なんてあっという間すぎて、私は何も変えられなかった。
できたことは、この席から見える景色を覚えたことだけ。
彼の髪の毛をいじるだけの関係が終わる頃、「もっと髪の毛を触りたい」そんな欲求が膨らみすぎて、私から二人きりになりたいと伝えてしまった。
いつもの拒絶が来るかと思ったのに、すんなり待ち合わせが決まった。
居酒屋での意味のない会話の後、渋谷の坂を二人きりで登った。
彼には彼女がいることを知っていたし、私にも彼氏がいた。
そんなことはどうでも良くて、目の前のふわふわの髪の毛を持つ彼を抱きしめたくて仕方がなかった。
理性なんてものは、いつもの教室に置いてきた。
服を脱いでからは、びっくりするほど不器用な彼を笑ったり、好きなだけ髪の毛を触らせてもらう。
わざと明るめにした照明の下で飽きるまでじゃれあった後、彼のふわふわの髪以外が全く好きじゃないことに気付いてしまった。
鈍感な私よりはるかに敏感な彼は、私の感情の変化に気付いたのかもしれない。
内心戸惑う私を連れて、シャワーも浴びずにホテルの部屋を後にした。
それっきり、彼には会っていない。
ホテルに入る前の居酒屋で彼女への罪悪感をひたすら述べていた彼のことを、彼女さんは幸せにしてくれているのだろうか。
条件反射のように自分を否定する彼が、猫っ毛の髪も含めて自分を好きになれるように。
自分に肯定なんてできるほど中身の詰まっていない状態で出会ってしまった私たち。
何もできなくてごめんね。
それでも、君のそのふわふわの髪をとても好きな人がいたこと。
君が自信をなくした時に、そんなことを思い出してくれたらいいなと思う。
きみや、きみのまわりの人が何を言おうと、私はきみの髪が好きだったよ。