現実世界を何をもって定義するのか?
洗脳された社会の暴かれた嘘。
この社会の真実の姿。(今ある社会はオカシイと思えど)
社会の真実の姿が露わになっていく事は良いとして、洗脳されて来た世界が崩壊する事を大多数の人々が望んでいるのだろうか?
今まで積み重ねて来た個人の社会生活の歴史が根底から覆される、幻想だったなんて誰も信じたくは無い。
幻想の中でも生きてきた実績があるから。幻想の中で死んでいってもそれはそれで(真実は切り捨てて)構わないのだろう。
そのまま社会(他者)が崩壊していっても、このままなんとなく自分だけは大丈夫だろ?って正常性バイアスで。
しかし「死」を放棄(考えなくなった時)した時「生」も放棄してしまった(思考停止)。
そしてそれを望んでいる社会。
雑な私感だが、バブル時代の「ネアカネクラ」という単純な二文法ブームによって「死」は封印され思考停止社会が始まったのでは無いのか?
(私にとっての最大の関心事が全く関心が無く生きている人がいるって事も非常に興味深い)
洗脳から解かれたとしてそれがデフォルトだ。
戦後この日本社会なにも始まってなかったんよ。
本線から脱線して80年!凄い!
脱線社会!
日本人だから(良くも悪くも🥲)洗脳モデルケース国家としてここまで成功したのだろう。
そのまんまマトリックス。
現実世界を定義するものは何なのだろうか?現実が現実たる所以は?
私には言語で解決出来る(正解を出す)世界では無い様に思えてならない。
生きているうちに全てを肯定できるのだろうか?
「死」というものが物凄く魅力的に思えてしまう時もある。(何ものからも束縛されない最初で最後の体験)
肉体に備わる感覚器官からただただ感じ取れるもの。(テレビなんか見てたら完璧に麻痺する)
考えれば考えるほど、離れていくもの。
何が不思議って、自分が(今、現在生きている人全てに当て嵌まる)時間(時代)の最先端に居てしまっているって事が非常にご都合主義に思えてならない時がある。(永遠にリバースされ続ける再生装置なのか?)
今ある、死生観とて何処かの誰かの考えたものに過ぎない。
資本主義の為の社会運営に都合の良いものに過ぎないものかも知れない。
すべてのものが管理された社会を望んでいるのは管理者(資本家)だけだ。
私がわたしでしか無いドグマから逃れる事は出来ない。
自我という呪いを生み出しそこからは死ぬまでわたしは私でしか無い。自意識と社会の間で殺してきた感情たち、もういい。
結局、世界を変えて来たのは誰かのエゴイズム(良くも悪くも)
そしてそれがなければ私は鉛のような一歩を踏み出すことは出来なかったのだ。
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