ライブに行ってきました♪ ライブで聞くとしんみり系の曲が意外によかったです。 ハルカとたぶん がとてもよかった
親からもらったお金無くしたし (今後お金はもらえないらしい) 授業すでに1時間くらい遅れそうだし 昨日の面談ばっくれたし 昨日の英語わざわざ設定してくれたのに行き忘れた。人間向いていません
現代文の授業で夏目漱石のこころを読んでいる。 先生の解釈だと、こころという小説の中で血というものがKの伝えたかったものの象徴として登場する。 Kが自殺した時、Kの血は襖に隔てられて「先生」の部屋には届かなかった。これは、Kの伝えたかった思いが、「先生」に届かず、死んでしまったということの象徴であるそう。 Kの死を通してでしか、Kの精神というものは果たして伝わらなかったのだろうか。人の死が美しいから、その人の精神の死すらも美しいものとしてしまう気がした。(余談だけれど三島
一言で感想を申し上げればクズです。 でもクズにはクズなりの悩みがあるのだなあ、 幸も不幸も善も悪もわからず、人生はパソコンがずっとリロードしているみたいな感じ。? 人との距離はほどほどに。 なんだこれ?って言わせたら勝ちの純文学でした。
なんかよくわからないけれど悟りを目指す人々は自分の小さな幸せを失うことも厭わないのだろうな。自分の生きる幸せとかそういうものと全く両立できない悟りというのはあるよやっぱり。あるのよ。
何かをいっぺんに知るというのは難しいので まずは自然畏敬の念を極めるのはどうでしょう。 それでも極めるというのは一生かかっても足りないというものだと思うのです。
いよいよ加熱してきた選挙運動。 あいにく未成年のためネットに特定の党や候補者の支持を書き込むのも グレーゾーン。 こうゆうことがあると日本にはいろいろな法律があって、知らないでいると勝手に法を犯している、なんてことになりうる。怖いね。 法律っていうのは道徳的に何かしちゃだめです、っていう認識からは実際結構かけ離れていて、それこそ宗教とか死生観とか絡んできて興味深い。 そういえば最近厚労省が臓器移植の制度変革を予定してる、というようなニュースを見た。臓器移植とかは日本の
彼女はオーストラリアの先住民族、アボリジニルーツのリディア=ソープ議員で、 オーストラリアを訪れたチャールズ国王に対して This is not your country … You destroyed our land. Give us a treaty. We want a treaty in this country. You are a genocidalist. 'This is not your land. You are not my king. You are
最近夜になると死が自分の頭から離れない という話を友達にしたら 有限であると知ることでより人生が充実する と言ってもらった。 まるで西の門から出た釈迦のような気持ち。
ケニアのお茶が好きだ。 それはともかく今日英会話がケニアの先生だったから忘れないうちにメモしておく 今日のトピックがたまたまサウスアフリカの医療列車について話し合うトピックだった。 その中でケニアの医療問題について先生が言ってたのは 田舎ではそもそも電気がないから病院が開けない あと現金社会じゃないから生きるのにお金を使わないのでお金がないし病院に行くようなお金はさらさらない 都会と田舎でいろいろ違いすぎる 広いところに人々が点在してるから病院が開けても行きづらい 病院に行け
大学迷い中、、 liberal arts系(SILS,ICU) にするのか 法学部か政治系に絞るのか、泥沼 lol 条件としては 半分以上英語授業がの必修がある 一年以上の留学ができる 法律が学べる GPAがpapertests だけで決まらない( レポートとかね でも飽きっぽいからliberal artsが良きかと思ったりSILSに行ったとしたら私の英語力でよいGPAが取れるのかという問題がね、ある 問題しかないな( ´∀` ) でもあんま英語のことだけ考えてても良くない
今日は朝から英検を受けた。武蔵大学に初めて行ったが校舎はなかなか趣があった。そうしてその間もずっと体調が悪かった。家に帰って熱を測ったら微熱だった。おそらくびしょ濡れ運動会のおかげで風邪を引いたのだろう。運動会は楽しいこともあったけど私の日曜日が養生にあてられてしまった。体調もいつ回復するかわからない。健康のありがたみを知る。 さて今日は漱石の「それから」を読んだ。メインのテーマは略奪婚で、今としては陳腐に思えるけれど当時としては心揺さぶられる内容だったと思う。また漱石の
三島文学の出発点、仮面の告白を読んだ。死に向かう感じがした。どうしても流転しなければならない感じがした。工場の場面で、死に向かっていくことを客観視させられた気がした。感慨深い。それを戦時中の話だと割り切ってしまえればいいのだけど。そうして空襲の後のシーンで、ひもじい食事をみて生きることにため息をついてしまう感じのシーンがあった。生きていたとしても、根本的に虚しい、偽り、虚無感、みたいなものが流転している感じがあった。 一方で夏目漱石の「それから」は主人公がなにも動かないので
本当にこんなどうしようもない人間を支えてくれる人が周りに沢山いる、ということを私は絶対に忘れちゃいけないし、そういう人たちがいなかったら自分なんていなかった。 月並みな表現だけれど、感謝だけで言い表せないと思ってるしもっと早く気づけたらよかった。
今回も安部公房の批評集、「死に急ぐ鯨たち」を続ける。これはもう半世紀以上前の本だし、絶版だし、ということでゆっくりやっていこうと思う。 この本で興味深いのは集団化と儀式化が明確に区別されているということだと思う。つまり儀式化は個人的で、非集団化するためのもので、より人間的、自然体、みたいなニュアンスがあるかと思われる。作者がひっきりなしにテレビをさしているのはこれが集団的だからということらしい。確かに、インターネットの普及で個人の趣味嗜好が個別化している面もあれば、流行が
先生もおっしゃってましたが、英語の長文読解は結局のところ現代文と通ずるものがあるのよね。感じることが大切。