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【ライフストーリーVol.7】様々な問題への答えを求めて、チャレンジをし続ける

中学校卒業後、日本語力ゼロで15歳の時にインドネシアから来日し、現在は大手アパレル会社で正社員として勤務されているモアナさんをピックアップ。

自分で考えながら、日々直面するさまざまな問題への答えを求めてチャレンジをし続ける彼女の姿をインタビュー記事でお届けします。

▶モアナさん プロフィール

中学校卒業後、15歳の時にインドネシアから来日。学齢超過や中学校を卒業して来日した子どもたちが高校進学のために学ぶ「たぶんかフリースクール」**に通う。日本の高校に進学後、高校3年生の時にインドネシアに帰国。事情により再び日本で暮らす。様々なアルバイトを経験した後、現在大手アパレル会社で正社員として勤務。(年齢は取材時)

▶日本語力ゼロで15歳のときに来日

― モアナさんのバックグラウンドを教えていただけますか?

インドネシアで生まれて今27歳です。母がインドネシア人で父が在日韓国人です。2人はインドネシアで出会って、途中から私が日本に移住して一緒に暮らし始めました。

― モアナさんは日本にいつ来たのですか。

15歳の時で、その前はインドネシアの学校に通っていました。私が5歳の時に、母は本格的に日本に移住を始めて、そこで弟ができたので、私とは少しの間離れて暮らしていました。

― モアナさんだけインドネシアに残ったのはなぜでしょうか?

多分、ずっとおばあちゃんっ子だったからですね。一度、福島に3ヶ月ほどいたことがあるのですが、やはりインドネシアに帰りたくなって、そこからずっと中学卒業までインドネシアにいました。

― 日本ではずっと福島にいたのですか?

最初に福島に行ってからのことははっきり覚えていないのですが、弟が多分幼稚園に入る前におばあちゃんの実家がある千葉に引越しして、そこからずっと千葉ですね。

― お父さまは日本でどんな仕事をされているのですか。

一緒に住み始めてからはケーブルテレビの会社などに勤めて、そこから転職して警備員をしていた気がします。 お母さんと弟は日本で工場勤務のパートをしています。

― ご両親とは、15歳まではほとんど一緒に暮らしてない状態だったのですね。15歳で日本に来ようと思った理由は何だったのですか。

おばあちゃんが亡くなって1年くらい叔母さんの家で過ごしたのですが、やっぱりもうお婆ちゃんいないし、特に理由もなかったのですが、ふらっと母がいる日本にきた感じです。

― 日本に来て、どうでした?

最初はカルチャーショックとまでは言わないですが、日本語力がゼロの状態だったので、弟とも全然話せませんでした。弟は幼稚園の時からずっと日本語で、私と母がインドネシア語で喋っている内容は理解できるのですが、日本語で返す状態ですね。

― モアナさんが日本語を理解するようになってから、コミュニケーションが取れるようになったみたいですね。お父さんはインドネシア語を話すのですか。

あまり話せなかったので、母とはずっと日本語でコミュニケーションを取っていましたね。

― 日本に来てからは、どんなふうに過ごしていたのですか。

地元の文化会館で日本語を教えるボランティアの方々が集まっているのを聞いて、そこに週に一度参加させてもらって日本語を教わっていました。半年くらいしかいなかったですけど、結構楽しかったです。

その教室で多文化共生センター東京がおこなっている「たぶんかフリースクール」を紹介してもらったので、入学して日本語を勉強するようになりました。

― では、高校には16歳から入ったのですか?

「たぶんかフリースクール」で1年間勉強したので、17歳の時に入りました。

― 「たぶんかフリースクール」での授業はどうでしたか?

めちゃくちゃ楽しかったです。インドネシア人は私以外一人もいなかったので、日本語で喋るしかなかったし、日本語を勉強しながら、仲の良い友達もたくさんできました。

▶言葉が分からず好きだった数学が苦手に

― 「たぶんかフリースクール」で勉強する中で、一番大変だった事はなんですか?

言葉の勉強自体というより、高校に入るための模擬試験や教科の勉強が結構難しかったです。数学などは、簡単な内容しか日本語で理解できなくて、それが一番大変でした。高校に入っても教科の学習は結構大変でしたね。

― インドネシアでは中学校までの成績はどうでしたか?

まあまあです、いつもではないですけど、クラスでは1位を何度か取りました。インドネシアにいる時は、数学が好きでしたね。日本に来てからは、一番苦手なのが数学になりました。

― 自分の中で「日本語さえできれば」という思いでしたか?

そうですね。

― 高校の入学は外国人枠ですか?

はい。松戸国際高校に、日本語の作文と面接だけで入りました。日本語での面接は初めてだったのでめちゃくちゃ緊張しました。 普通科と国際科があって、私は国際科に入りました。外国籍の生徒も多かったですね。

― 高校生活はどうでしたか?

結構みんな明るくて、話を聞いてくれて、自然とみんなグループを作った感じです。外国籍のクラスメートに興味を持つ日本人の子も結構いましたね。

― じゃあ、コミュニケーションも 日本語でとる感じですか?

完全に日本語でした。入学当初は結構不安でしたが、なんとか乗り切った感じです。

― 授業は先ほどおしゃっていた通り、数学が大変だったんでしょうか?

数学も大変でしたし、理科や国語の理解も結構遅かったので、放課後などに個別で、違う先生からゆっくり教えてもらっていました。5人だけ違う時間帯で教えてもらって、プライベートクラスみたいな感じでした。

▶高3で一時帰国して再び日本へ

― 高校1年生の時にプライベートレッスンみたいなものがあって、2年生以降も同じような流れで進んでいた感じですか?

そうですね。ただ2年までいて、そこから自分だけちょっと帰国することになったんです。どういう気持ちだったのかは覚えてないのですが、なんか帰りたいなって思って。いろいろ疲れたのかもしれませんね。母にわがままを言って、帰らせてもらいました。それで、高3だけはインドネシアだったんです。日本の学校でいじめにあったとか、授業がすごく大変でストレスがいっぱいだったわけでもないんですが、満足しちゃったのかもしれません。

― インドネシアに帰って高校三年生の一年間を過ごしてみた時はどうでしたか。日本とのギャップを感じたことはありましたか?

数学がやっぱり簡単でした。それでまた勉強したくなっちゃって。日本語の数学の教科書は、今見てもわからないですけど、思い出があるのでまだ持っています。

― いつかもう一回、ちゃんと振り返ってみたい気持ちがあるのかもしれないですね。インドネシアの高校に入って、インドネシア語が大変になったりしなかったですか?

最初はなんか発音がおかしいって言われました。インドネシア語は特に発音が難しくないんですが、日本語のような発音になっていたと思います。

― インドネシアの高校を卒業した後はどうしていたのですか?

インドネシアの地方の大学に入学しました。国際関係を第一志望で受けたのですが、そこを落ちて、第二志望の日本語学科に入りました。本当に基礎の日本語から学ぶことになったので、すごく楽でした。

― 日本の高校に行っていましたからね。

日本人の先生たちとも会話ができました。ただ、当時はあまり体調が良くなくて、3ヶ月しか経っていなかったのですが、もう日本に帰ろうかなということになりました。母が日本にいるし、親戚の人たちに迷惑がかかっちゃうから。それで大学を退学して、日本に帰ってきました。それからは、ずっと日本です。

― 日本に帰ってきて、どう思いましたか?

やっぱり日本語はそんなに困らなかった。あったかい国だなと思いました。日本にまた来てからは、大学には行かずにそのまま病気の治療を受けて、半年ぐらいたってからアルバイトなどをやり始めた感じです。

― アルバイトは何をしたんですか?

最初コンビニやカフェで働きました。多文化共生センター東京でも、インターンとしてお手伝いしていた時期がありました。そこから次の年にインドネシア語と日本語の翻訳をやってみようかなと思って、半年ぐらい翻訳会社にも勤めました。

― 翻訳の仕事は大変でしたか?

大変だったけど、興味のあることなので結構楽しかったです。そこの翻訳会社にインドネシアの方が二人ぐらいいて、一人はそこまで日本語がわかる人ではなかったのですが、今私が勤めているアパレル企業でお掃除や裏側の仕事をしていたんです。その人にいろいろ聞いて、翻訳会社を辞めてアパレル企業に入りました。バイトから入って、最終的に社員になりました。とにかく、その時にできたことは全部やっていた感じですね。掛け持ちでアルバイトを三ヶ所でやって、派遣会社にも登録させてもらっていました。

▶外国ルーツの学生と社会人の交流があれば良かった

― 日本で高校生だった時、もっとこういうことができていたらとか、こういう支援があったら良かったのに、みたいに思うことはありますか?

社会人になった外国ルーツの人と交流が、もっとあったら良かったかなと思います。今はちょっとずつできるようになったと思うのですが、そういう機会が高校に入ってからは一回もなかったと思います、もっと社会人の話が聞けたら、インドネシアに帰らなかったかもしれないし、やっぱり日本で就職しようと思うようになったかもしれません。

― 日本の高校にせっかく2年生まで行ったのに、インドネシアに帰ることに対して、お母さまは何か言っていましたか?

結構言われました。でも帰りたいから、じゃあ、仕方ないかと。インドネシアの親戚もウエルカムみたいな感じだったので。

― もし奨学金がもらえたら違ったかなというのはありますか?

それは結構大きいと思います。経済的にカツカツだったので。あとは大学受験のお金がインドネシアのほうが安いから帰ったというのもあります。親の負担を少しでも減らそうという感じで。

― 親としては日本の高校の入学金を払い、「たぶんかフリースクール」の授業料も払い、インドネシアの編入のお金も払うのは大変だったと思うのですが、そのあたりは特に問題なかったのでしょうか?

結構大変だったと思います。だから今は反省し、頑張って働いている感じです。一人暮らしをしているので毎月いくらというのはないですけど、必要だったら親に渡しています。

― 日本ではこういう職業に就きたいなという夢はあったりしましたか?

これといった夢はないのですが、いろんなことに興味はあります。小さい子どもの英語の先生だとか、キャビアテンダントとか。もしくは、英語をばりばり使う OLというのも。

― インドネシアでは英語もよく使われるんでしたっけ?

英語は人によって差がありますが、使う方だと思います。私はそこまでではないですが、ちょっとだったら使えます。ただ、日本語を勉強していたので、英語力は落ちてきています。

― 高校三年生のときにインドネシアにまた戻ったことで、将来の方向性は変わったりしましたか?

その時は日本語もできているほうだったし、大学も日本語学科でしたし、日本語を使うような仕事につければいいなと思いました。

― インドネシアでは、大学に行ったらいい仕事につける感じなんでしょうか?

人口が多いので就職率自体は結構低くて、働く場所や働くチャンスが少ないです。日本語学科というだけでは、あまり採用されないと思います。やっぱり IT系の人材が一番必要とされています。

▶社会人として働きながら次の道を模索

― アパレル企業の正社員になってどれくらい経ちますか?

5年目です。

― そろそろリーダーとかになってくる頃ではないですか?

はい、なっています。7時から業務があって、閉店するまでの間にどう作業を振るかを営業しながら対応したり、みんなができなかった分を自分がフォローしたりしていますね。

― 大変ですね。クレーム処理もあるでしょう?

あります。クレームは慣れていますね。バイトの時から、こいつだったら日本語わからないだろうっていう感じで言われることもありますが、今は頼られる側の人間なので、強い気持ちでいかなくてはいけないと思っています。

― 若い子たちを助けてあげなくてはいけないのですね。頑張っていますね。5年間正社員として働いてみて、今後こうしていこうみたいな気持ちはありますか?

実は今転職しようと思っているんです。何かいやなことがあるからではなくて、今の年齢ですと将来的に店長にならなくてはいけないというのがあるので。私は店長を目指していないので、次にどうしようと今年に入ってから考えるようになりました。 かと言って、大学も卒業していないので、高卒の状態で転職するのは結構大きい問題かなと思っています。

― もう一回大学に入り直すことは考えますか?

考えますけど、経済的な面も結構厳しいので、どうしようかなと思って。しばらくオンラインの資格講座だったり、夜間の学校というのもあったりすると思うので、いろいろ調べて、働きながら勉強を進めようかなと思っているところです。

― もし大学に入りなおすとなったら、どういう方向に進もうというイメージはありますか?

IT系ですかね。パソコンに結構興味があって、単に興味があるだけですが、仕事に役立つなら良いかと思っています。

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モアナさんは、これまで自分で考えながら、日々直面するさまざまな問題への答えを求めて、チャレンジをし続けてきました。その歩みは一直線ではありませんが、一歩一歩前に進むモアナさんの語りから私たちが学ぶことは多いのではないでしょうか。

**たぶんかフリースクール
特定非営利活動法人多文化共生センター東京が運営するスクール。主に日本で高校進学を目指す学齢超過もしくは中学校を卒業して来日した生徒に居場所と学ぶ場を提供しています。

人見美佳 取材
吉田 浩 執筆

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