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【ライフストーリーVol.8】ボーダーを超えてしなやかに生きる

外国ルーツの子どもたちが、社会に対してどんな感情を抱き、どんな生活を送るかは、来日した時期、経済状態、周囲の環境、本人の感受性など、さまざまな要素が影響する。それらの濃淡はあれど、異国で言葉や文化の壁を乗り越えていくのが容易でないという点では同じだ。

吉田始永(しよん)君の場合、こうした外国ルーツの子特有の課題に加えて、特殊な家庭事情が人生をより複雑なものにした。13歳のころに韓国から日本に渡り、両親と生活するようになった青年の暮らしと意識の変化を探る。

▶親戚の家を転々とした幼少時代

 始永君は韓国のソウルで生まれ、2歳の時に両親が離婚。

物心ついたときには兄と姉を含む家族全員が既にバラバラで、親戚たちの家を一人、いわゆるたらい回しの状況となった。韓国内のさまざまな地域を転々とし、小学生になったばかりの頃には米国のボストンで1年間暮らしたこともある。濃密な愛情が最も必要と言われる幼少期、両親と触れ合う機会はほとんどなかった。

「小さなころのことはほとんど記憶にないんですよね~」

厳しい家庭環境で育ったにも関わらず、屈託ない笑顔で語る様子に悲壮感は全くない。現在、28歳。医療品メーカーに勤務し、休日には仲間とスポーツや飲み会などを楽しむごく普通の若者だ。コミュニケーションスキルに長け、人の輪に溶け込む能力に関してはむしろ高い方だろう。それだけに、壮絶な生い立ちとのギャップが際立つ。

ようやく親元で暮らすようになったのは、小学校を卒業してからだ。当時、韓国のリゾート地として有名な済州島に住んでいたが、中学校入学を前に母親とその再婚相手の日本人男性が住む日本に行くことを決断。13歳で初めて住む日本、初めての親との同居、言葉も文化も異なる環境での生活と、あらゆる転機が一気に訪れたのがこの時だ。

▶順応しすぎ?でトラブルも

 日本の公立中学校に通うことになったが、来日前に心配していたいじめに遭うこともなく、順調に周囲に溶け込んでいった。一方、難儀したのはやはり言葉の壁だ。

「日本語がまったく出来なかったので、中学校にはあがらずに小6をもう一回やることにしました。だから僕は、韓国と日本の両方で小学校を卒業してるんですよ」

小学校の授業とはいえ6年生。いきなり付いていくのは厳しく思えるが、国語以外に関しては韓国で学んだ内容のほうが進んでいたため、問題はなかったという。

日常会話をトレーニングしたのは、同じく母親と同居していた姉だ。日本語のイントネーションや活舌を学ぶため、ニュース番組を録画してアナウンサーの真似をして喋る訓練を強制されたという。

単語や簡単な表現に関しては、公文式の幼児用テキストなどを使って覚えた。努力の甲斐あって、半年ほどで日本語での意思疎通はできるようになった。今や、本人が言わなければ外国人と分からないほど完璧な日本語を操る。

学校に入る前に、自治体やNPO団体などから語学学習の支援は受けなかったのか――こう質問すると意外な答えが返ってきた。

「支援してくれる団体があること自体知りませんでした。当たり前のように日本の学校にすぐに入りましたし、母親も多分、日本で生活するなら日本の学校に行けるでしょ、という感じ。中学から日本の名字をすぐに使いだしたのですが、そもそも学校のほうもあまり気にしていなかったかもしれませんね」

周囲から外国人という意識をあまり持たれなかったことで、トラブルにも見舞われた。

「高校受験のときに、学年を一つ落としていたことが理由で、受験日の3日前に受験資格がないと第一志望校から電話がかかってきたんです。それで学校の先生も塾の先生も大慌てになったぐらいなので、意外とその辺の認識は甘かったかもしれないですね(笑)」

▶帰化することで特長を失いたくない

 言語学習のハードさや文化の違いによって戸惑う場面もあったが、基本的に外国ルーツであることが理由で、日々の生活で大きく躓くようなことはなかった。学校の成績も良く、人間関係も良好だったと本人は振り返る。

とはいえ、否応なく自らのルーツにについて意識せざるを得ないこともあった。それは時折浴びせられる「お前の国ではそうなのか」という言葉だ。

「仕事でもバイトでも、怒られているときに言われることが結構ありました。学校でも先生から『お前の国ではそういうことを平気でするのか』とか言われました。でも、国は関係ないですよね。学生の時は言い返したりしなかったけど、社会人になってからは、そこは超えてはいけないラインだとなんとなく意識するようになりました」

ずっと日本に住んで、周囲に溶け込んでいるにもかかわらず、何かと出身国の問題にすり替えられるやるせなさ。これは、外国ルーツの子どもたちの多くが体験していることだ。

そして、他の多くの外国ルーツの子どもたちと同様、思春期には自分のアイデンティティについて悩んだ。とりわけ、自らと向き合わざるを得なくなったのは、日本に帰化するかどうかの選択を迫られた時だ。結局、帰化することはなかったのだが、その理由が興味深い。

「国籍は韓国だけど、僕って結局何人なの? みたいな思いが一時期凄くあって、考えても答えは出なくて。日本に帰化もしようと思えばできたんです。今しようと思ったら大変なんですけど、20歳までなら結構簡単にできたので。

帰化を選ばなかった理由は、もし日本国籍になったら自分の特長がなくなってしまうと思ったからです。日本人になりたくないとかではなくて、日本人が日本語をしゃべるのって当たり前じゃないですか。僕が人生の中で唯一努力してきたのが日本語なんです。それが普通のことになるのが嫌でした」

ちなみに、日本人の父親を除く家族は全員韓国籍だが、日本の姓を名乗っているのは自分だけだという。単純に、日本が好きか嫌いか、日本人になりたいかなりたくないかだけで立ち位置を決めているわけではないことが、そんな部分にも表れている。

▶韓国人であることをキャリアに活かさない理由

 一貫しているのは、自らの努力や実力に関係なく与えられるものを忌避する姿勢だ。大学を家庭の事情で中退し、中学生のころ通っていた塾の先生の誘いで講師として就職するも3年でIT企業に転職した。コネや周囲の親切に甘えるのではなく、全く違う世界で自らの力を試したというのが理由だった。その後は外資系の大手物流企業、医療品メーカーに転職。韓国ルーツという出自を、仕事に活かそうという考えはないと言い切る。

「韓国の芸能事務所などから、転職の話が来ることはあったんですよ。でも、あまり気が向かなくて。改めて思い返すと、なんだかそういうので仕事をするのはズルしている感じがするんです。自分が韓国人でなかったら、できなかった仕事ではないのかと。ゲームでいうと、自分だけ最初から特殊な武器を持ってるみたいな感覚ですね」

実際、コネがあることをラッキーと思う人間もいるし、自分で築いた人間関係からのコネであればそれも実力と捉えることもできる。外国ルーツの子どもが、ユニークな出自をキャリアに生かすことは決して悪いことではない。むしろ、ポジティブに人生を歩むためには賢明な選択とも言える。

しかし、始永君の場合は、それを良しとしない。「自分の特長を失いたくない」と帰化を拒んだ青年が、キャリア構築に特性を生かさないのは不思議にも思えるが、一口に「外国ルーツの子ども」と言っても、その思考はさまざまである。

▶性格を変えた母親の言葉

 始永君にとって、日本で落ち着いた生活ができるようになったことは、総じて幸運だったと言える。外国人であることのハンデより、これまで述べてきたように複雑すぎる家庭環境のほうがはるかに影響を及ぼしたからだ。実際、日本に来る直前には母親のことで酷いいじめにもあっている。

「母親が日本に出稼ぎに来ていることが友達に知られて、学校の全校生徒からいじめられました。でも、実際に殴られて身体的に痛いのはありましたけど、きついとは思わなかったんです。自分の中にきついという基準がないから。いろんな場所を転々としていても、これが普通なんだと思っていたし、母のことで何か言われても『知られたからこうなるんだ』と受け止めていました。今だったら耐えられないですけど」

自分を客観視することで、無意識のうちに過酷な境遇から身を守っていたのかもしれない。他人と仲良くなっても、転居で別れるときの辛さを考えて一人遊びばかりしていた。他人と話すのが苦手で、コンビニに一人で行くのさえためらっていたという。そんな内向きの性格を変えたのは母親の言葉だ。

「韓国にいる頃、母親に国際電話で報告できることが勉強でどれだけ頑張ったかくらいしかなかったので、ガリ勉だったんです。でも来日した後、すごく心配そうに『あなたは内弁慶だね』と言われたんです。家の中ではすごく喋るけど、外では喋らないのを見られていました。そう思われたくないなと思って、意識が変わりました」

学生時代も、社会人になってからも、母親を喜ばせたい気持ちが物事に対するモチベーションの源泉だった。だが、最近ではそんな気持ちに変化が表れてきたと語る。

「親が一緒にいない環境で育ったことで、親を喜ばせたい気持ちでずっといい子でやってきたんですが、2度目の職場をやめたときにすごく疲れたなと思ったんです。なんでこんなふうに頑なに生きてるんだろうって」

モチベーションの在り方が変わったのか、と問うと頷きながらこう話す。

「それまでは基本的にみんなと仲良くしていても信頼感は一切なくて、常に全方位に敵しかいない感覚だったんです。そうあり続けるのがしんどいなと。やはり小学生の時にいじめられた経験が大きくて、『誰も救ってくれないから自分で何とかするしかない』という気持ちがありました。それでずっと生活してきましたが、このスタンスで行ったら満足することは一生ない。満足しなかったら楽しいと思うこともないと考えて嫌になったんです」

日本語学習をはじめ、外国ルーツの子どもたちに対する学校からのサポートは、現状では十分と言えない。始永君のように「誰も救ってくれないから自分でやる」という精神で頑張り続けるのは難しい生徒もいる。それを踏まえた上で、同じような境遇の子どもたちに対して、こうアドバイスを送る。

「仕方ない事情で日本に来たとしても、語学の上達も含めて、日本で生きていくなら日本人にどんどん接したほうが良いと思います。自国民のコミュニティから外れて、自分から行動してみると随分変わるかもしれません」

一方、そうした自立心が負の要素として心に影を落としていたのも事実だ。これまで、人懐っこい笑顔に隠れていたいわば裏の部分。日々抱いていたその違和感を自覚し、他者に対する信頼感を少しずつ内面で育み始めた彼のこれからの人生が、幸福なものになるのを願ってやまない。

吉田浩 取材・執筆

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