「被災地支援」とエゴとマウント
先週
今回の被災地の一つである
石川県珠洲市の伝統的な文化を
撮影したという映画を上映する
イベントに参加しました。
被災地支援のイベントとのことでしたが
上映前に
主催者が映画や撮影監督の説明もないままに
本当は開始時に監督が来て話をする
予定だったが
本人は寝る間も惜しんで
(被災地支援と称する映画上映の
イベントを開催するように)
各方面に連絡をしているため
主催者としては監督に
上映の間は休んで欲しい
だから上映後に来てもらうことにした
と述べていました
そして
映像が途中で何度も
止まるなどトラブルがありつつも
映画の上映が終わり
おもむろに登場した映画監督
自身の紹介もそこそこに
「(映画で取り上げられていた
伝統の技を承継している
人たちが)あんなことになってしまって・・・」
と泣き始めました
さらに
2011年3月の東日本大震災で
東京に違和感を覚え
そこから能登に行ったら大いに癒された
というような話をしていて
当時撮影した映画を
この機会に広く上映したい様子でした。
上映会の主催者まで泣き出す始末で
映画とも被災地支援とも関連が薄そうな
個人的な思いを吐露していました
主催者も映画監督も共に関東在住者で
被災地には血縁はないらしい。
果たして
主催者と映画監督の話は必要だったのか・・・
さらにここで
現地とつながりがあるという
石川県民(県職員の方らしい)が
話をされていて
その方はせめてまだ震災の当事者と
言えるのですが
お話をされた後
個別にちょっとだけ会話した際
私が宮城の出身であることを聞いた途端
「私は2011年の震災後すぐに大船渡に
支援に行ったんです。
船が陸に打ち上げられていて・・・
いまだに役所関連とお付き合いがあります。」
と被せるように言ってきました
なんと言ってよいのかわかりかねましたが
とにかく支援のお礼は申しました。
さらには
この上映会に誘ってくれて
一緒に行った友人が
友人の知人が今回の被災地に支援に行くので
その方に支援品を託したという話をした際にも
これまた被せるように
かの地におけるここ数年の大地震のことなどを
滔々と語っていました。
被災地に思いを寄せて役に立とうという
気持ちは否定しませんが
チャリティーイベントの名のもとに
集まった人々の前で泣きながら
とりとめのない話をしたり
自身の活動について
まるで自慢するかのように
語るというのは
被災地をネタにして
自分の高ぶる感情と承認欲求を
満足させるかのような
行為に見えてしまう
なにより
本当に現地の役に立つのだろうか
もちろん
そんな動機や感情に基づいて
動いていない方も
いらっしゃるでしょう
今回は
ご本人たちが
ご自身がいま動いている
動機や感情について
自覚が薄そうであることも
気になりました
このことについて
改めて考えるきっかけとなりました。