なぜいま一村か| Misakiのアート万華鏡
上野の東京都美術館で、近年再評価が高まる画家・田中一村(1908〜77)の大回顧展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」を鑑賞した。
孤高の画家、その波乱の生涯
その名は、どこか懐かしい響きとともに心に刻まれる。幼少の頃から南画に親しみ、東京美術学校(現 東京藝術大学)に入学するも、わずか2ヶ月で退学した一村。表向きは家庭の都合とされているが、実際には強い個性ゆえに学校を去ることを余儀なくされたという。当時の日本画界では厳格な師弟関係が支配的だったのだ。その後、独学で画道を歩み、画壇から距離を置いて奄美大島へと移住。晩年まで独自の芸術世界を追求し続けた彼の生涯は、まさにドラマティックであった。
彼の生涯で特に印象深いのは、画壇のしがらみに囚われることなく、内なる声に従って絵画と向き合い続けた姿勢である。日展や院展での落選を経験しながらも、決して諦めることなく、自身の表現を追い求め続けた不屈の精神に深い感銘を覚える。
50歳で奄美大島へ移住した一村は、亜熱帯の豊かな自然の中で生命力あふれる植物や鳥を題材に、独自の作品世界を築き上げた。それらは単なる写実を超え、画家の魂から湧き出るような生命力と自然との深い共鳴を感じさせる。1977年、移住から19年後、誰にも看取られることなく孤独な最期を迎えた彼の生涯は、南海の離島で芸術に生きたゴーギャンを彷彿とさせる。時に大胆な作風の変遷を見せる点はピカソを想起させ、強烈な個性ゆえに生前は理解されなかった点では、ゴッホやセザンヌ、ルソーと共通する。またエルンストやキリコを思わせるシュールレアリスティックな表現も見られ、その芸術性は世界的な水準に達している。
日本全体がヒステリックに経済高度成長の道をひた走っていた時代に、田中一村は奄美で畑に群がるカタツムリを踏みつぶしながら野菜などを自給し、極貧の生活に甘んじて絵を描き続けた。彼のストイックな生活とその風貌は、あたかも修行僧のようである。
なぜ、いま一村なのか
不透明な時代を生きる私たちにとって、田中一村の芸術と生き方が示唆に富んでいる。政治的・経済的な混迷、価値観の多様化、テクノロジーの加速度的な進化―。こうした激動の時代にあって、確固たる信念を持って自身の芸術を追求し続けた一村の姿勢は、現代を生きる私たちに深い示唆を与えてくれる。
一村は、高度経済成長期という、日本が物質的な豊かさを追い求めた時代に、あえて極貧の生活を選び、奄美の自然に向き合いながら独自の表現を追求し続けた。その生き方は、効率や生産性、経済的価値が重視される現代において、改めて「本質的な豊かさとは何か」という問いを私たちに投げかける。
また、画壇の主流から外れながらも、独自の表現を貫き通した一村の姿勢は、不確実な時代における「個」の在り方を考えさせる。既存の価値観や システムが揺らぐ今だからこそ、一村の芸術と生き方が新たな輝きを放っているのではないだろうか。
東京時代:早熟な才能の開花
まず東京時代。最初は少年時代の絵から展示が始まる。この絵が8歳のときに描かれたと知り、驚いた。一村は早くから日本画に習熟しており、まるで手練れの職業画家が描いたように見えた。
南画の精神を受け継いで
南画(なんが)とは、中国の南宗画に由来し、これを日本的に解釈した絵画であり、江戸時代中期以降に発展をみた絵画様式である。山水画を中心に、花鳥画や人物画など、様々な題材で描かれ、現実を写実的に写し取るよりも、中国南方の山水風景を理想郷として、水墨画の淡墨や濃墨を使い分けて、自然の奥深さや精神性を表現することが特徴である。南画は「文人画」とも呼ばれ、文人、つまり職業画家ではない人物が趣味で描いていたことも多く、その分、おおらかな表現や深い精神性が感じられることもある。
田中一村は、こうした南画の精神性に影響を受け、特に水墨画の淡墨や濃墨を使い分けた点に、その影響が見られる。
千葉時代:新たな表現を求めて
しかし、田中一村の作品は、南画の伝統にとどまらず、とくに千葉へ移住した時期は、様々な画風を試すなど、新たな方向性を探っていた模索の時代に入る。琳派の華やかさや西洋画の写実性といった要素も取り入れ、独自の表現を確立している点が特徴的だ。
千葉時代は、27歳にして父も亡くし、30歳で親戚を頼りに移住した千葉市千葉寺町での活動を追った。農作業をしながら絵を描く、半農半画家のような生活をしていた。困窮生活のなかで、公募展にも挑戦を始めたが、落選が続きうまくいかなかった。
『白い花』で一村は、ヤマボウシの花を描いたようだ。この絵は公募展に入選したことのほかに、「米邨」から「一村」へと画号を変えた第一作になった特筆すべき記念の作品とも言える。本作は、青龍社が求める、会場映えする大きな画面できちんとした写生に基づいて描かれている。このように、一村は筆が立ち、速水御舟風でも川端龍子風でもなんでも描けてしまった。それ故に彼自身のオリジナリティが見えづらくなるというジレンマもあった。描ける人ゆえの苦悩を抱えながら、この後10年余り様々な公募展やな展覧会での落選が続いた。
一村はとにかくいろいろ試した。例えばシャモを一生懸命描いてみたり、千葉の様々な風景を描いてみたりした。しかし、千葉では決定的な何かを掴むことはできなかった。それが、九州・四国・紀州へ旅行に赴いた際、南国の強い光や植物に触発されて生命力が強く感じられる絵を描き始めた。そして、この気づきを胸に、彼はとうとう奄美へと旅立つことになった。
奄美で大きく開花:生命力あふれる独自の世界
太陽の光があふれる、鮮やかな世界
田中一村の絵画は、まるで太陽が燦燦と降り注いでいるような、明るく澄んだ光で満たされている。この特徴は、一村が幼い頃から描き続けてきたもので、彼の作品を特徴づける重要な要素だ。
大胆な構図と表現
特に、奄美大島に移住後の作品では、大きな葉っぱを持つ植物が画面の中心に大きく描かれていることが多く見られる。まるで、その植物が絵画の主役であるかのように。この大きな葉っぱの手前には、海や島などの風景が少しだけ覗いている。遠近法を使わずに、このような構図にすることで、絵の中に奥行きが生まれ、まるで絵の中に吸い込まれていくような不思議な感覚を味わえる。
作品から感じられるのは、一村が心から奄美の自然に対して抱いた愛情と敬意。例えば、『不喰芋と蘇鐵』では、鮮やかな太陽の光が差し込み、植物の生命力があふれんばかりに表現されている。この作品を目の前にすると、「自然の中で生きるとはこういうことか」と強く感じさせられる。
写真を活用した制作プロセス
一村は、奄美の自然を写真に収め、その写真を見ながら絵を描いた。写真の中で、大きな葉っぱが印象的に写っている構図を見て、絵画にも取り入れてみようと思ったのだ。生命力あふれる植物: 一村の絵の植物は、どれも生き生きとしていて、生命力にあふれている。
作品の特徴
1)生命力あふれる植物: 一村の絵の植物は、どれも生き生きとしていて、生命力にあふれている
2)奥行きのある空間: 平面の絵画なのに、奥行きを感じることができ、まるで絵の中に吸い込まれていくような感覚になる
3)奄美の自然への愛: 奄美の自然に対する深い愛情が、絵の隅々まで伝わってる
一村の没後、1984年にNHK「日曜美術館」で紹介されたことをきっかけに、一村の名が全国に知られるようになった。その晩年の活躍にもかかわらず、生前十分に評価されなかったという事実は、どこか切なく、そして彼の芸術に対する情熱の深さを物語っているように感じられた。
彼の生き方が現代に問いかけるもの
高度経済成長期、日本が物質的な豊かさを追い求めていた時代に、一村は奄美の自然と向き合い、極貧の生活の中で芸術を追求した。効率や生産性が重視される現代社会において、彼の生き方と作品は「本当の豊かさとは何か」を考えさせられるメッセージに満ちている。
一村の独自のスタイルは、時代の価値観やシステムに囚われない「個」の力を示している。私たちも、彼のように確固たる信念をもって自分の道を追求できたら、人生はもっと豊かになるのかもしれない。
*ぜひ、東京都美術館の「田中一村展」を訪れて、彼の作品に触れてみてください。奄美の光と魂が息づく絵画に出会える貴重な機会です。
https://www.tobikan.jp/exhibition/2024_issontanaka.html
展示会チラシはこちら↓