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"弱さ"こそ、かっこいい。の話

行元です。大切な学生チームに書くねと、約束して随分たってしまった。(遅くなってごめんね。)

この秋も、たくさんのARTに彩をそえてもらった。

今年足を運んだ中でもとりわけ感動した京都国際舞台芸術祭の、えーっとトーク②「無駄」の研究2024.10.17 について忘れたくないことを綴ります。

ーフェスティバルのキーワード「えーっと えーっと」にちなんだトークの第2弾として、美学者の 吉岡洋と〈弱いロボット〉の開発で知られる岡田美智男の公開対談を行う。ひとりでは何もできないロボットの開発を起点に、人ともの、人と人の関係や 、社会のあり方を探求してきた岡田。その知見を交えながらこの対談では、もっぱら効率や短期的成果が求められる現代社会に逆行するかのような「無駄」な回り道こそが、実は私たちが生きていることの意味に直結しているのではないか? と問いかける。そもそも機械は役立つから意味があるはずなのに、なぜ役に立たない〈弱いロボット〉に私たちは惹きつけられるのだろうか?

ゲスト: 岡田美智男 (豊橋技術科学大学 情報・知能工学系教授)、吉岡洋 (美学者)
聞き手: KYOTO EXPERIMENT 共同ディレクター

Kyoto Experiment WEBサイトより

当日の様子

全体のトークは同芸術祭共同ディレクターであり尊敬する友人Julietのモデレートで進行された。はじめに吉岡先生からは「無駄研究ではなく、無駄研究です」と優しく強調され、同芸術祭の2024のテーマである「えーっと えーっと」というテーマと岡田先生のロボット研究の原点(以下、口ごもるコンピュータ)との親和性にも触れながらお二人のかけあいで、お話がはじまった。

岡田先生の、ご研究の原点

ゴミ拾いが一人でできない、ごみ拾いロボット🤖をはじめ、これまでの作品のコンセプトやエピソードが紹介された。以下、沢山の学びの中から特筆して、2つ紹介する。

Robject?

数あるロボットの中で私が心惹かれたのは、昔ばなしロボットだ。

昔むかしあるところに、おじいさんとおばあさんが・・・(割愛)・・(空白の時間)・・・なにがながれてきたんだっけ?と投げかける。子どもたちはくちぐちに「ももー!」という。

もの(Object)とロボット(Robot)の間の概念 = Robject

子どもたちは、ロボットという概念をそもそも知らない。

まっさらな視点で、うごくぬいぐるみ?と思っている子もいる。だからこそもの(Object)とロボット(Robot)の間の概念を提唱している。そして、知能についての根本的な捉え方がちがう、ということにについても言及された。先生は、知能は個体に宿るのではなく、いつも「人と人」、「人と🤖」のインタラクション、コミュニケーションの間に宿るものだという。

弱さを知ること

ーあえて、不完全であること、弱さを知ることで人は助け合える。

冒頭から「あまり人前に立つのは・・・」と、口ごもりながら、いいよどみながら言葉を紡いでいく岡田先生の話し方やリズムに安心感を覚えた。弱さや不完全さ、人間として自然体でいること、そのままであることをご研究を通じて、ご自身の在り方を通して、まっすぐ受容していいんだよ。それが魅力だよ。というメッセージにすら聴こえ、お世辞ではなくとても魅せられた。

その後、質疑タイムへ

私の感想

今でこそ、岡田先生のご研究は、メディアにも掲載され、様々な企業との連携でも知られている。教育分野では小学校の国語の教科書や、高校の英語の教科書に掲載されていることが証明しているように、その意義はもとより、理解と親しみを得られている。時を戻し、ご研究の出発点は、相当に苦労をされたと思う。「機械は役立つから意味がある」「完璧でならなくてはいけない」という通念が、今よりも根強く流れていた時代。その当時から、変わらぬコンセプトで見出された意味を貫かれた意志、そして、周りの理解が得られなくても、不完全さ・弱さに向き合い続ける姿勢にエンパワーされた。

強いロボット、だけだった

会の中では、当然、いわゆる"強い"ロボットの研究にも話が及んだ。私自身、も過去にSONY AIBO開発者の土井さん(現在天外さん)におめにかかり、GLOCALの研修にもお越し頂いたこともある。そして、マツコアンドロイド開発者の大阪大学の石黒先生の対面のセッションにも参加した。ともかく刺激的で、面白い。その強烈な個性と知性をもって研究開発をされていること、その魅力やダイナミズム、手触りを、技術的なことは素人でうとくても身をもって体感している。

そのうえで、私は、こうした"弱い"ロボットの研究に、やっといま、光が当たっていることに希望を抱くと共に、もう少し早く、なぜ私自身、「ロボットって、役に立たなくちゃいけないんだっけ?」と思えなかったのか、が悔やまれる。どちらかでなくていい、両方共存できるのだ。

思考の道具としての<弱いロボット>

べき論からの解放

世界が、いわゆる"強い"ロボットとの共生を議論したり杞憂する中、立ち止まり、"弱い"ロボットを通じて、私たちは、不完全でいいんだよ。ロボットでも、リーダーでも、できないことはできないといっていいんだよ。と、「完全であろうとすること」に、無理に苦しんできた人ー特に男性社会のリーダー像を背負って来た人たちーを、解放することができたのではという想いを強く感じた。

弱さに向き合えることは、真の強さだと思う。控え目だけれども、ご自身の信じる意味を基軸に、青い炎のように長年ご研究をされてきた岡田先生の強さはすさまじい。完全であることを否定もしない、そんな真の優しさ中にある強さを感じるお人柄にも、共感をおぼえたのは私だけではないはずだ。

今、未来に向けての物語を

今、80年代、90年代のSFで描かれたことが現実になっている。その時見た作品や映画への憧れや青春が投影され、その現実化が起こっているとしたら、そこに、「なんのため?」をはじめとする、多角的な観点は抜け落ちていることも多々あるのではないかということを気付かされる。

今、SFとして何を描くか 物語の重要性。

-Science Fiction
-Social Fiction


弱いロボットや、ヘミングウェイの「老人と海」のような 弱さ、老い=自然なこととして美しく年を重ね次の世代に託していく生き様。そんなロールモデルの出現が語られていく社会であってほしいと願う。

最近、私の大好きな、ミヒャエルエンデの「モモ」が絵本に、なった。(ネタバレになりますが)そこに、はいいろの男は出てこなかった。もうこれからの時代には、はいいろの男の存在を表す必要が、なかったからかもしれない。

▽岡田先生の話はこちらの記事によくまとめられています

最後に

"不完全"や"弱さ"こそが、次の時代のかっこいいになってほしいと願う。
それこそが、人と人や次世代と今のシステムとのかかわりしろにもなる。

次の時代と言わず、できない。ってどんどん言っていい。
それで一緒に頑張ればいい。強くありたい願いや頑張りもかっこいい。けど弱さに向き合えるのは本当の強さだから、もし無理している人は、偽らないで欲しい。

ドイツ人の友だちと話した。「なんで、ロボット?なんで、人同士でこの会話ができないんだろうね。」と言った。そうだなと思った。

人と人ができたらベスト、そのためにも、ひととRobject、ひととロボットで、こどものまっさらな視点に学び先入観から脱していくプロセス、概念や~べきを手放していくプロセス、はってさせてもらうことや気づくことが大切なんちゃうかな?って思いました。

作品に触れて、こころが洗われて。感動しっぱなしの秋。

心をフルオープンで開いていると、嬉しいことも悲しいこともダイレクトに感じる。世界でフィクションのような現実が起きている。できることは、眼差しをそらさずに、今を生きること。

ーそれでも、世界は美しい。

現実にめまいがしそうになっても、人間の知性と知能に希望を感じながら生きよう。

追記(1/10)
ここからバトン形式でまずはYくんにバトンを託そうと思う。このルールは、blogを受けて徒然なるままに書き、終わりにバトンとして問いを投げかける。それだけ。

オブリゲーションはない。書くのは、1年後でもいい。学びと遊びと仕事と、学生と社会人の境目を曖昧にしていこう。まずは4人の実験のはじまりとして。学びはいつもそこにあって、わたしたちはなんでも自分で創れる。

君が好きな雑誌WIRED Vol.54の冒頭にオードリー・タンの「グッドイナフアンセスター」という言葉が引用されている。

ーGood enoughという言葉には、未来世代のために「完璧さ」をのこさないこと、という積極的な意図も込められている。
・・・次の世代が自分たちで選び取れるような多元的な可能性をのこすこと。

問い:
弱さや不完全さが、次世代/他者の関りしろを測るバロメータになりうるとしたら、意図して、面白みがある不完全さを残すことこそが大人の果たす役割なのか?今残されている、社会における不完全さの質はどうだろうか?
それらは、若者の力を発揮するスペースになりうるのか?

みたいなことを考えた

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