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東大卒の覆面学者団の署名文を読み解く【後編】 / 先生は頭がいいのだろうか
さて、長くなってしまったので途中で切って、後半です。署名活動に関する感想「前編」を要約すると、繰り返されている行動がどんな類の倫理的な問題を孕むのかを導くかの中盤の論証のオリジナリティは力強いが、なんでWikipediaになんてに言及しちゃうの?謎。って話。
新聞という物理的なものは、やがて捨てられ回収され、目の前から消える(だから新聞は「消える」理論……)vsどこからでも誰もがみれるWikipediaは恒久的──と思うのはまさに非学者的な感覚で、アーカイブ性の側面や学術的な信頼性からいえば反対なのに、って学者らしからぬ視線が混ざり合う不可思議さを一本めに持ってきたけれど、でも、それって、「まあその誤解は、ジェネレーションギャップだよね汗」の一言で片付く問題、と言えばそうなのです。
前編で私が書いたことは、今現役の大学生~65歳くらいまでの(感覚が現役の)学者まではおそらく通じる論理であるが(80オーバーはねぇ……酷かも)、仮にこの文章を書いた東大卒の学者が、今80歳だったとしよう。まあねぇ……そしたら、ウィキペディアというものをどう判断すべきかという議論に出会わないまま老後時間に突入した……と考えたら、はい。
そういう高齢の方だったら、私の「Wikipediaですか????先生???(´;ω;`)」という驚嘆は隠すのがマナーかもしれない。
でも、ジェネレーションギャップでは説明できない自我の不思議さもこの文章は見せている。後半にいくほど三文小説的だし、ソースはどこ?と、どうとでも言えそうな井戸端会議的な情報を不思議と混ぜだす(Wikipediaとはいえ引用していた前半はどこに笑)。]
悠仁様の筑波大付属高校の入学式で、「ズル仁、帰れ!」と叫んだ筑波大付属高校生たちは、異例に重い、停学処分を受けた。
授業中、悠仁様がぼーっとされているのを見るに見かねて、「分かりますか?」と親切に聞いてくれた筑波大付属高校の教師に対して、「僕に分かるように教えないお前が悪い!」と、静かなクラス内で激昂された、という話は漏れ伝わってきている。
こういう言葉を綴ることによって、的を得ている議論さえも「誹謗中傷」と括られ、闇の中に捨てさられる可能性を自らあげてしまうため、明らかに誹謗中傷として反証され得るくだりをせっかくここまで書いた文章に混ぜちゃうなんて不思議でしかないのだが、ラストパンチ的に、私が東大で……博士までやった人の文章?として解せないのは、「結語」の第二段落以降の文章である。
もはや学者の論ではない終盤は良識ある人々を落胆させる
文章の終末で、「動くべき時に知的エリートが己の怯懦のために動かなかったがために、後に悲惨な惨禍をもたらした、という歴史上の事例はいくらでもある。東大入試を突破し、東大で博士号を取った者として、筆者達には東京大学総長藤井輝夫氏の愚行を止める責務がある。」と責任感をあらわにする覆面学者団は、その文言につながる水の引き方として、結語の第二段落で、後世となって振り返ると、時代の分水嶺となる分かれ道に気づかず、それを見過ごしたことで、取り返しのつかない邪悪な勢力の台頭を許し、悲劇を招いたと語るのだが、その例として登場するのが、ヒトラーなのである(驚)
そして、悠仁親王とは、「そういう類いの有害な人物になりつつある御方なのではないか?と畏れ多くも疑っている」と書くのだが、「類の」「なりつつ」と、直接的なイコール関係を緩和するヘッジングをつけ、さらには「恐れ多くも」とへりくだったポーズをとりながら文末を「疑っている」とすればその前に何を書いてもよいわけではない。
先生、さすがに600万人のユダヤ人の殺戮を先導した独裁者を「止められなかった果て」のアナロジーとして引き合いに出すのは、不適切でしょう。知性とは、適切なアナロジーを見出せることでもあるのだから。
特権階級に生まれた者のモラルハザードと言いたいなら、もう少しマシな例があるのではないだろうか。
また、17歳の少年を「有害な人間に成りつつある人物」とラベリングしていることもいただけない。
これは、有害な人間と無害な人間、悪人と善人にすべての人間は分類されるような幼稚な二分化論であり、それはたとえば置かれた状況(環境的要因)と人間を切り分ける社会心理学や、人の成り立ちをクロノロジカルに解明する発達心理学という文系学問の教養が欠片もないのに「我、知的エリートは」と仰るようで、ため息をつきたくなる。
根拠ある批判と誹謗中傷を混ぜたら相手に逃げ口を与えるのに
ところで、学問の徒たるもの、論で戦え、個人攻撃をするな、というまあまあ永久不変(と思いたい)なポリシーというものは学問の世界にはあると思う。まあ学校でガイドライン的に習ったTheoryとPractice(建前と現実)は往々にして違うんですねと思うし、日本のコメンテーターとか誰もそんなの守ってないよねとは思うのだけど。まあ、品格とか格式を問われるのが学者ってことになってますからね、一応。
「個人攻撃」とは、所属する機関ではなく個人を攻撃することではなく(皇室を批判するのは個人攻撃ではなく、親王を批判するのは個人攻撃?という疑問には、NOとなる)、「言論・主張」ではなく、人格や属性といった、言論と無関係の「個人的な部分」を攻撃するということである。
例えば、独身子供なしの政治家が子育て支援政策を打ち出し、「子供を育てたこともない政治家の子育て支援論なんて信用できない」とメディアが言えば、それは個人を貶める個人攻撃。あるいは、「あんな気が触れたやつのいうことは信頼できない」ということも、特定の言動ではなく人格を否定しているため、個人攻撃。ちなみに「あんな気が触れた女のいうことは」となったら、「気が触れた」という侮蔑と、「女」という属性の二重のオフェンス。
しかしながら、本文章の終盤(結語の中盤以降)に出てくるのは、こんな感じ。
筆者達は、悠仁様というのはそういう類いの有害な人物になりつつある御方なのではないか?と畏れ多くも疑っている。授業中、悠仁様がぼーっとされているのを見るに見かねて、「分かりますか?」と親切に聞いてくれた筑波大付属高校の教師に対して、「僕に分かるように教えないお前が悪い!」と、静かなクラス内で激昂された、という話は漏れ伝わってきている。そこにいるのは、僕が出来ないのはお前たちのせいだ、お前たちのサポートが悪いせいだ!とヒステリックに喚き散らす小暴君である。
これによって、17歳の少年の周囲こそに責任があり、問題であるというその手前のマトモな指摘までもが、「誹謗中傷」として捨て去られる可能性が、急上昇する。
せんせー、冷静になってください。せっかくの大事な文章なんですから。
先生……英語は苦手?(´;ω;`)
加えて 英語版である。「赤門ネットワーク」という(自称)東大卒覆面学者集団は、署名の英語版を用意し同時展開しているらしいと知り、随分用意周到だなぁと、興味本位で英語版も目を通してみた。というか、確かに報道される可能性で言えば、まあ国内より海外の方があるのかもしれないな──そう思ったので。ええと、一読して思ったことは、「これは相手にされないだろう」。
この場合、具体的にこの単語が、この文法がどう、というのは揚げ足取り的かつ人としてよいことと思わないので読める人は英文版を各自で読んでみればよいと考え、細部の挙げ列ね的なことは控えるが、何にfailしているのかをざっくり言うならば、概念を翻訳することと文格の再現に失敗している。
元の文章には緻密に演出(表現)された、3者の意識バランスがある。
①「東大入試を突破し、東大で博士号を取った者として」という、書き手の自我の位置 /
②無自覚に罪深いことを重ねてしまっていると論じる対象の、「17歳の少年」
③その「少年」(このままいけば“将来の天皇”になる)を取り巻く、愚かな両親と、「周囲の大人たち」。
東大の先輩であり、学問の先達を自称する“筆者達”(大人)と、「少年」の間に滝が上から下に流れるような落差があり、また「筆者」と秋篠宮家の両親及びその側近という「大人たち」の間の意識にも落差があること(賢人と愚さの構図)が、この文章の構造的なバランスを支えるものなのであるが、それが英語になると あたかも舌たらずな僕ちゃんの、僕ちゃん指摘になってしまっている。
翻訳とは表面の直訳ではなく、異文化・異社会の常識の違う相手に思考の概念的な部分を翻訳し、エッセンスを伝えることであるのだが、ミスが乱発し 格調は吹き飛ぶ。その一例だけはあげておくか。
The symbolic emperor system (Shocho-Tenno-sei) introduced in Japan after World War II has successfully taken root in our country, even though it is delicately balanced on two elements. One is respect for the emperor on the part of the people, and the other is the virtue on the part of the emperor that is appropriate to that respect.
私も翻訳の達人ではないが、異文化間の説明に過去10年思考錯誤してきた身として、これくらいすっきり書くかも。
The symbolic emperor system, which started in Japan after World War II, has successfully taken deep root in our country, although it requires meeting a difficult prerequisite: mutual respect between the people and the emperor.
文章というのは、信頼である。だから、身振り手振りでも伝わればいいという旅行者ではなく、特に交渉事や依頼文の英語は、読み手の常識や理解に立ち、ロジカルかつ迷いない言葉で綴られていないと聞いてもらえないのが英語圏のメディア。(よっぽどネタの大きな事件の数少ない生存者です!!!というなら、カタコトの訴えでも聞いてもらえますが・・・振り向かせるというのはそのはるか上をいく事)欧米で活躍する現代アーティスト村上隆は、芸術界の翻訳の現状はひどく、「日本美術、歴史アルヨ」「ワタシ思ウンコトヨロシク」みたいなレベルが大手を振ってまかり通っている、英語に自信のある日本人学者のアメリカでの講演会では誰も彼の言葉を理解できないが学者本人は大盛況と誤解する──とつまりは自己完結した井の中の蛙状態と『芸術起業論』でいうのだが、アメリカの大学で生きようとして、「は?お前何言ってんの?」的な表情に日夜遭遇してきた私としては、そんな自己完結した世界どこにあるんだ……と思っていたけれど、なんか確かにこの英語版の署名を見るに…………。
でも、東大で学部から博士まで勉強したら、英語で論文とか読むよね????(東大から客員研究者で来てた人って私よりよほど書く英語上手でしたし)と思うのだが、でもそれって期待値高すぎなのかな?と逡巡し、ちょうどECOLOGY という学術誌に掲載された論文がちょうど手元にあったので、さらっと読んでみた(奇しくも東大の農学生命科学研究科で博士号を取得されていらっしゃった)。ちなみに内容は、カブトムシの生態について疑問を持った小学6年生の男の子からその先生の著書の連絡先に質問が来て、アドバイスをしてあげたらその子が自分でやった研究に驚き、内容を翻訳してアメリカの学術誌に投稿し、採択されたものだということに興味を持って読もうと思っていたもの。
ECOLOGY, The Scientific Naturalist, "An introduced host plant alters circadian activity patterns of a rhinoceros beetle"
結果。Flawless(完璧)だった。すごい!すごいわ!これよ。学部から博士まで東大なんだいと威張られて、まあ納得と思う英語の文章は。
まあ、でもこれは私の主観だから。一応、Chat GPTにも聞いてみた。署名文をワードにコピペし、和文と英文をそれぞれ読ませて、この英文が訳書であることを説明した上で(英文だけだとそもそも文章を理解されないと思った為)、以下の質問をしてみた。
![](https://assets.st-note.com/img/1724385159438-b1qPCYjwLM.png?width=1200)
私は、自分は頭がいいんだ!的な自認で人を小馬鹿にする人が好きくないので(メディアや皇室、あるいは大企業という「権威」に対する批判と、権威を特に持たない者に対する嘲りは違うもの)、なんかなぁぁぁぁぁぁぁと思って遠慮なく書かせてもらいましたが、私がこの署名文で嫌だなぁと思うのは、自分達を「東大入試を突破し、東大で博士号を取った」「知的エリート」と置き、「素人」(=「学問の世界では、こうした虚偽が何十年にも渡ってまかり通ってしまうということが、残念ながら素人が思う以上にある」)と、読み手をなんだかバカにしてんなって感じがするからなのです。で、「素人」にはわかんねー高尚な見地から我々が天の声を的なスタンスで教えてくれると仰るが、その知性とやらはあまり大したことがない、という。
言いたいことは 知と知の殴り合いをしたいなら、自分の知性がそうでもないって露呈するのはダサい。
……そんなわけで、東大卒の……学者……が……書いたんだぁ……へぇ……とかわりと懐疑的に見ていたのですが(総合的には)、でも、東大卒って、まあプレジデントオンラインによく寄稿してる神社みたいな名前の外務省出身のトンデモ論者さんも東大卒だしね……
まあ、東大だったのかもね。(結果、わからないという答え)
ジャーナリズムとしての価値と、社会運動家としての価値はまた別
ところで、ツイッター上で、この人たちが本当に東大卒の学者だって証拠どこにあるの?的なバトルを見かけたのだが、ないっしょ。でも、東大卒の学者が偽称だったとしたら、言論としてのこの文章の価値が無に帰すか、とは私は思わないわけです。
ジャーナリズムと社会運動というのは別の観点で評価されるべきだと思う。(日本ではなんだかごっちゃに取られがち、ですが。たとえば元TBS記者の性的暴行事件を被害者側が記した『ブラックボックス』は、自由報道協会大賞を受賞したというが、権力に負けない市民運動、IをWeのstoryへと変える社会運動家として功績があるということと、ジャーナリストとしての功績はまったく別のはずだけどなと不思議であった。(自分側に不利になることは一切出さないストーリーに、ノンフィクションの“ジャーナリズム”という都合の良いラベルを貼るのは個人の自由ではあるが、それを評論側がそう評価するのってどうなんだろう)。
この署名文を、思想、社説的な言論としてみれば、せっかく素晴らしい文章書いてたのに最後自制をかなぐり捨てて自滅したねどんまい、みたいな感じだが、アクティビストとしては、すごいんじゃないでしょうか。まあ、格式問われるのが学者で、でも一つのマナー違反もしないアクティビストなんていないと思いますしね……
私がこの署名のストラクチャーで唸った点は、これが宮内庁宛じゃないところです。
彼を推薦する立場の高校の校長と東京大学の学長って、関連する民間の学校、国立大学という第三者の良心を問うという構図は、面白いと思いますね。
東大卒の学者サンが言ってくれてるという「属性」に票を投じるというのはあれですが、書いてある思考に共感した部分があり 傍観者でいることを拒否しサイレントマジョリティから脱することを選ぶ意味で署名するのは、有りだと思います 勿論。
2024.08.22
と書いていたら、なんか文章の掲載元であるChange.orgから、発起人へ、文中のいくつかの表現を事実に基づく根拠を提示するか、もしくは表現を改めるよう指導が入ったらしい。
さて、先生はどうするのでしょうか?
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![@Globe🌏蓮実 里菜](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/157475810/profile_73e1b34a9d42098ae87a5ed462b3bc3a.png?width=600&crop=1:1,smart)