【3】アリストテレスの弁論術に学ぶ、超長文の東大推薦反対署名が飛躍したワケ
この原稿は9月初旬に某経済誌に寄稿し、不掲載になったものです。寄稿って媒体の読者層やトンマナに合わせて書くのでnotesっぽくはないのですが、捨てちゃうのももったいないなと思ったので全文公開します!不掲載になった経緯はこちらに
以下全文
8月後半、皇族が推薦入学で国立大学を受験することに反対する趣旨のオンライン署名が1万2500筆の賛同を集めたことは週刊誌を中心に広く報じられたが、あまり知られていないことは、この署名運動は、完全に「文章の力」だけで成し遂げられたもの、という点である。
通常、署名サイトを活用して活動が行われ、注目を集めるものは、記者会見を立ち上げ時に行ったり、メディアの取材をイベントに入れたりとの工夫が凝らされるが、本署名はそういったことは行わず、発起人の名前も、東京大学の卒業生という属性を想像させる「赤門ネットワーク」という通称以外は非公開であった。にも関わらず、本署名は、わずか1週間程度で1万筆を突破した。呼びかけ人の顔が見えること(実在する団体である等)、あるいは発起人が実名なこと──という信頼の基本的条件とも思える要素を持たずして、この署名は、なぜこれほどまでに飛躍したのだろうか? 実は、哲学者アリストテレスの弁論術という古典的なフレームワークで、そのパワーを説明することができる。
アリストテレスの弁論術とは、今なお不変の人を説得する法則として、リーダーのスピーチ研修や欧米のMBAなどで広く教えられるものだ。私自身もそれに出会ったのはコロンビア大学のパブリックスピーキングの授業であったが、わずか20人程度の枠に毎学期何十倍かの学生が詰めかけ、志望動機書を書かないと受講できないほどの人気授業であった。
弁論術における「説得の三原則」とは、すべての説得力の高いスピーチは、エートス(ethos)、ロゴス(logos)、ペートス(pathos)の3要素から構成されている、という考え方である。様々な和訳があるが、エートスとは、話者の持つ「信頼性」を指す。信頼性とは、略歴や人柄、また語る動機など多様なものに起因する。ロゴスは論理性であり、ペーソスとはいわばそこに込められた情熱や温度であり、人の感情に接続する力のことである。「赤門ネットワーク」を名乗る署名運動家は、まさにその3要素が相互に絡み合う呼びかけ文を書いていた。
哲学的な論証に挑んだ呼びかけ文
本呼びかけ文のロゴスとして一つ特筆すべきは、「命題の前提化の巧みさ」にあった。本署名文は、いきなり「___に反対します」とはじまるのではなく(これは結論)、冒頭で、上皇陛下の言葉を引用する形で、「象徴天皇制が成立する条件」とは天皇と国民の相互の信頼であり、それには天皇が人々の敬愛を集める「徳」を備えていることが不可欠である、と導き出す。
この前段はあっさりと見過ごされそうでありながら、実はそこの部分が全体をグリップする功績は読み飛ばし難いものだ。なぜなら、“象徴天皇が成立する条件”をここで読者との「共通の前提化」しなければ、ある者は、天皇とは血筋で決まるものと答え、ある者は男系男子の伝統であること答え、論点を握れないからである。
また、ここに「徳」という抽象的かつ直感的に理解しやすい形容詞を持ってきたことも秀逸なワードチョイスである。たとえば、「帝王学」という言葉は天皇の資質を育むものとしてよく使われるが、それが実質的に何を指すのかという共通認識はほとんどない。反対に、天皇としての「徳」という言葉は抽象的でありながら、直感的に人が理解しうるものであり、「〇〇という行動は、徳があるか、ないか」ということに対しては、読み手が自分の意見を持ちやすい。さらに「象徴としての」天皇という修飾語で言葉のイメージを具体化させ、戦後の昭和・平成・令和という、読み手の多くにとって当事者意識のある時代の「天皇」として意識のスコープを切った点も巧みである。
(これは天皇とは2000年の歴史のことである、というような論者の説法を排除し、私たちはそんなことを話しているのではない、という議論のスコーピングを切るという力を持っている)。
つまり、天皇論を語るときについて回る論争的なものの一切を排除し、シンプルに、近代の象徴天皇制が存続する不文律の条件とは何かを提示し、その上にそれが敬愛と徳が応答し合い保たれている状態とおき、その命題に対し、皇族の若い親王はそれを継承できる行いをしているだろうか?彼の周囲の大人たちは、この少年にそのような自覚を促すような接し方をしてきたであろうか?と論じていくのである。
「当事者性」をうまく活用した訴え
論証のなかで、彼らは東大卒の学者であるというアイデンティティに言及しながら、悠仁親王が東大への推薦進学を希望する場合、有力な材料となるであろうと言われている悠仁論文の学術論文としての問題点や、研究倫理上の問題行動を指摘し、なぜ、その功績を片手に推薦入学へ突き進むことが「天皇としての人徳」を毀損することになるかを論じていくのだが、そこには、これでもかというほどエートスが詰め込まれている。
エートスとは、その人物がなぜそれについて論じるに値する人物であるのかを読み手が(聴衆が)感じるかどうかであるが、自ら論文を読み、エビデンスの不十分さや、なぜその行動が不適切であるかを解説するというスタイル──特に、「学問研究において必須のこの誠実さ、これが佳作作文の盗作が露見した時の対応と全く同質の問題であることは、悠仁様にはわかっていただけるであろうか?」──という老練な語り口は、話者の人格、能力、そして「主張」の一貫性を高く感じさせる。勿論、自称東大博士ではなく、その検証のデモンストレーションに説得性を持たせられるかがエートスがあるかの条件であるが、武蔵大学社会学部の千田教授は「おそらく文章を書いた人は、アカデミアの近くにいるひとだろうとは、私も一読して思った」とプレジデントオンライン上で述べているように、本丸の論証については、大変丁寧にされていた。
また、ずっと説法では読むに耐えないが、超長文の呼びかけ文には、適度なスパイスも含まれている。
また、東大への進学に熱心であると言われる紀子さまを皮肉る形で、
とエリート社会内の終わりなきヒエラルキーに言及する文章はX上で話題となり、該当部分をハイライトし、「もっと広まってほしい『中から見える東大の残酷』」と投稿した東大卒業生の投稿は、なんと約2250万回のview、約12万いいねという数字を記録した(2024年10月17日現在)。
威信と侵害の構図が引き出すペーソス
さて、この文章のペーソス(感情に訴えかけるもの)はどこにあるのかというと、恥と社会的正義に結び付けられる形で浮き上がる。剽窃を指摘されながらも作文コンクールの賞を辞退しなかった行動が海外に報じられたことは、皇室外交の場で、「恥ずかしい」。学問というのは一般に尊敬を集める行為であり、生態系を撹乱させる行為をしながら、そのことを論文内で言及しないのは、研究倫理に抵触する行動として、嘆かわしい。研究倫理がなく悲劇的な結末につながったと一般的に認知されている事例として、「STAP細胞の何が罪深いかというと」と言及する形でその果ての重大さを説き、
と、宮内庁にとってはおそらく耳が痛い以外の言葉がない舌鋒を交わす。
そう、この呼びかけ文では、「大切にされてきたものが、保たれている状態」と、それが揺らぎ、侵害されている状態という構図が「避けるべき状態」として提示されるわけだが、そこには、学問への尊敬と矜持、貧しくとも努力によって人生が切り開かれる学府としての東京大学の意味、象徴としての天皇への敬愛とその対外的な威信──と、様々な国民にとって関心事であるものが多層的に投影されているのである。その多層性こそが、この「声」に振り向く人の数を最大化させるのだろう。
また、この署名を語る上で欠かせないのは、文末に来る「提出先」である。ラストに向けて、本人を導くことができない周囲の大人を嘆き、「だから」こうするしかない正当性を背景とし、筑波大学附属高等学校藤生英行学校長と(学校推薦者の選定を行う立場)、東京大学藤井輝夫総長(選抜を行う立場)に対して、「その際は、悠仁親王が将来天皇となられるお方だということへの顧慮は一切抜きに、飽くまでも公平公正に選抜することを要望致します。この要望の趣旨にご賛同頂ける方からご署名を頂ければ幸いです。」と結ばれる。
この「構図」に、一筆書いた者もいるのではないだろうか。国民の席を奪うなと遠慮してくれと宮内庁に申し入れたいという態度ではなく、そんなことは土台求めておらず、代わりに、学問の府の長の良心に問いかける。それこそ皇族の行動に関して、国民があれこれ言うのは間違っているという見当違いの意見を秒殺する「構図」であり、また、その念押し要望が主観的なイチャモンではないことを証明するためにこの壮大な論証があるのである。この構図の斬新さは、この文章のどこを否定したい人にとっても否定しようがない。
この発想は、日経新聞の意見広告を2面丸ごとハイジャックする金もない、何百万人という読み手のいる全国紙に論説記事を書くことも叶わない国民が、元手ゼロで打ち上げたミサイルというくらいの斬新さであった。
SNS時代の対立し合うエートスとペーソス。品性と扇情性の間で考える
だが、本署名文には、誠に遺憾なことに、ヘイト感情の煽りに関して、誹謗中傷といえる表記や文言(例:「ズル入学をすること」)も含まれていた。中盤まで割と丁寧かつ過度な論理の飛躍なくまとまっている論証は、ラストに扇情的な訴えにより出し、学校生活の態度といった根拠不明の噂話のようなものが混ざり、話者のエートス(倫理や話者の人格や品性に対する信頼)は、総合的には限定的な形となるのである。
いくつかの表現は、署名サイト元であるChange.orgのガイドラインチームから「いじめに該当する表記」「特定の部分(=学内での行動のこと)に対して、根拠を呈示するか削除すること」と修正要請(改善への要求)がなされ、そのことは署名運動を早期に終了させるきっかけとなった。
呼びかけ文は、誹謗中傷性を含む部分を抜いても人の感情に十分訴えかけるものを持っているため、それなしにこの署名文がどう世の中に存在したのだろうかを知りたかった一方で、私はこの終盤こそが、一種の「大衆化」的要素であったのかもしれない──とも考えている。 ネットで文章を書いていて思うことは、単純な論ほど(担ぎやすいものほど)バズるということである。特に、ラブとヘイトほど読まれ、複雑で高潔な文章ほど読まれない。この超長文をじっくり読んで納得する層と、さらさらーっと読み流し、最後の想像しやすい人間の行動に反応する層はおそらく別で、2万字を詳細に読んだ上で署名をした人もいる一方で、詳細な議論はなんとなく読み飛ばし、それがどういうポータブルでわかりやすい単語(例:ズル、裏口入学)に落としこまれているかに反応し、署名をしてSNSでシェアをした人もいただろう。
いずれにせよ、この演説とも言える2万字に及ぶ署名呼びかけ文は、スピーチライターや社会運動の評論家などにとっては、非常に深い考察の味わいを提供するものである。この多層的な文章を、十把一絡げに「あまりに悪質な署名活動」と総括するのは、あまりに粗悪な要約である。
しかしながら、言論を担うはずのメディアは、週刊誌とごく一部のウェブメディアを除いて本署名活動に言及することはなく、署名の定量的な数にとどまらず、書かれている文章の内容に踏み込んだ発言をしたのは、前出のプレジデント上の千田教授くらいである。日頃、SNSでの誹謗中傷はいけないと語り、リテラシー教育が必要であると語るメディアは、この文章のどこが誹謗中傷に該当し、どこは根拠ある批判であるのかを解説するこれほどにない啓蒙サンプルを前にしても、その切り分けをしようとすらしない。
署名呼びかけ文とは本来、細かい論証を重ねた上の思想や言論の発表の場ではない(Change.orgは、効果的な署名呼びかけ文とは1000字〜2000字であり、1200字以内の文章を推奨している)。議論は、国会や日々の報道で花咲くべきである。皇室報道が忖度と自粛で慢性的な不機能に陥り、国民の声はどこにも代弁されない閉塞感が漂う社会で、目がさめるような「国民の主張」が署名プラットフォームから上がり、そしてなお依然として主要メディアはだんまりを続けていることは、改めて、「扇情的でありながらも、論証型の文章が、なぜ爆発的な求心力を持ったのか」を説明している。<了>
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