今しか「親父」と呼べなかった理由。
朝から少し雪がちらつき、礼服は思いのほか外気を通し、寒さに弱い僕はこたえた。
たった今、初七日の法要が終わって、ここ何年かを走馬灯のように振り返りながら、少々酒に酔った足で帰路につく。
夕方のこんな時間に酔っぱらっているのは理由がある。
2日前利用者が亡くなった。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病を患い、発症したのが7年前で享年69。
昨日と今日がこの世で最初で最後の酒の酌み交わしだったからだ。
ビールを喉に流し込むたびに、今頃どこにいて何をしているだろうか。動きを取り戻した手で久しぶりに、ストローを使わずコップ酒をしているかな。などと考えていた。
初めてお会いした時は3年5か月前で、我々は介護タクシーで会社の送り迎えをしていた。
この利用者は創業者で、病気を患い歩行が困難になっても会社通いを止めなかった。
プライドは人一倍・・・いや正しくはそれ以上だ。平日は作業着からカッターシャツにネクタイを覘かせ、寡黙でいる佇まいは「ミスター社長。」だ。
しかし唯我独尊といった難しい人ではない。
むしろ僕がこの方の工場で働いていたら、迷わず「親父!」と呼んでいたに違いない。
それくらい日々の会話に敬語が似合わない場面が多かった。
僕は一日でも長く会社に通ってもらうこと、その力になりたかった。
それがこの方の「尊厳の輪郭」であったからだ。
ある時その尊厳を蔑ろにする事件が起きた。
当社のスタッフがこの方に前開きのシャツを勧めたのだ。
すでに腕の機能はなく、両肩も亜脱臼しており更衣介助の際は慎重を期した。
なのでご本人に負担なく更衣ができるようにと思って勧めたのだろうが、僕は「介護者の都合である。」と激昂した。
「衰えていく体に抗うように生きる人に、安易にあきらめを提供することは、少しずつ尊厳を削り取る行為に等しい。
ましてこの方は創業者である。
前開きのシャツをきっかけに、より伸縮性のある衣服に変わり、果てはジャージ姿で社長の威厳が保てるか!会社に行くこと自体をあきらめるではないか!」と言ったことは今でも鮮明に覚えている。
厳しいようだが、我々介護職こそが技術と知識に裏打ちされた「あきらめの悪い人」でなければならないのだ。
すべての利用者は体が衰えていくにつれ、本来自らで行いたい行為を他人に委ねている。その時点で「人質を取られた遠慮の塊」なのである。
よく聞くのが「これくらいでいいよ。」、「適当でいいよ。」などと、ケアのゴールを前倒しにする利用者や家族の発言だ。
僕はそんな時必ず「試されている。」と思っている。
つまり「介護屋」か「尊厳を守る介護職」かどうかを問われているのだ。
だからゴールを前倒しにすることは一切しない。
それがこの仕事における僕のプライドであり、介護職は至極この姿であるべきと考えている。
また違う場面では「人の価値」を気づかされた。
ある時車内で自らの衰える体のことを指して「人間こんなんなったら終わりでっせ。」と言われた。
僕はやるせない気持ちになったが、精いっぱい伝えたことがある。
「最低でも僕にとって価値のある人です。日々衰えていく体に毎日同じケアをすることはまず出来ない。だから毎日いろんな方法を探しています。だから僕は毎日介護職としての成長があるんです。」と。
そんな姿勢が届いたのか、自らの姿を人前に晒すことを極端に嫌った方が、最初は行かない予定でいた娘さんの結婚式に「付いてきてほしい。」とお願いされ一緒にバージンロードを歩いた。
奥様が過労で脳梗塞になったことも理由の一つではあるが、入浴介助もさせてもらえるようになった。
今では生徒に決まってここまでの話を講義でする。
しかし話す内容に続きができた。
この一週間の出来事。つまりターミナルケアについてだ。
ALSという病気は「気管切開し人工呼吸器を造設するかどうかの選択」を否応なく迫られるのである。
この方は気切はしない選択を取っていた。
最初に呼吸停止した翌日にお伺いした際、「安楽死はないのか。」「怖かった・・・。」と気切をしないと決めた決断に動揺が見られた。
家族も一様に混乱していた。
何度目かの緊急対応の際、家族が人工呼吸を施しており、ご本人はチアノーゼが出て顔面蒼白であった。
意識が混濁しているものの、自立呼吸を認めたためすぐに交代し懸命に呼吸介助を行った。
その時、家族や親族から「まだ頑張ってよ。」、「死なないで。」という言葉に冷静に違和感を感じた。
これ以上苦しめないであげてほしい。頑張っている人に頑張れだなんて。この世に死なない人などいないのだ。どうせ苦しむのなら一度にしてあげてほしい。という家族にとっては不謹慎な思いが頭を巡り、呼吸介助をしているこの手に何の意味があるのかと思った。
それから訪問看護を交えて、何度も娘さんを中心に家族と今後「どうしていくか。」を話し合った。
その度に頬を流れる涙を見て、介護職は冷静という言葉を被ったなんという「冷たい人間なのだ。」と思い知らされた。
従事者の思考は「どのように死に向かうか。」だが、家族の思考はそれとは似て非なるものなのだ。
その微妙なズレがあるのが家族であり、想いがあるから迷うのが家族なのだ。
「死ぬまで生きる。」を「懸命に共に闘う」のが家族なのだ。
そう思ってから、呼吸介助の手にも意味が宿った。
それは「苦しみの除去」である。
すでに麻薬投薬も開始されていたが、この人生の最終章の場面に薬以外で、介護職の出番はこれ以外ないくらいの思いで頑張った。
帰り際「すまんね。ありがとう。」という言葉に、「いえいえ、明日は来る予定ではないですが、何かあればご連絡くださいね。」
これが故人と交わした最後の会話となり、翌日7:30に眠るように息を引き取ったそうだ。
お昼前に伺うと、今にも起きそうな故人と、乾ききらない涙の痕はあったが晴れやかな顔をした家族がいた。
「生きるを闘いぬいた人」たちだ。
そんな姿に深々と礼をして退室した。
いつもご本人を会社にお送りする時に見送りしてくれるところまで、僕を見送りに出てきてくれた。
そして「最後の最後まで父に敬意を払って介護してくれてありがとうございました。」と最高の賛辞をいただいた。
最高の気分とは裏腹に、最愛の人を亡くした直後に他人に礼儀が払える人間性と、真一文字に唇をかみしめ涙を殺しながら御礼を述べる姿に僕の胸は張り裂けんばかりだった。
翌日お通夜に参列し、故人とたらふく酒を酌み交わした。
帰る前にもう一度顔を見ようと、ご遺体に向かった。
御棺に手をつき少々思い出話をして、最初で最後にこそっと「親父。次はそっちで呑もうや。」と言ってみた。
なんだか一番しっくりいく会話だったが、それは介護職としてでは決してない。
ただなんとなく、最後に少し普通の人間付き合いがしたくなったのだ。
そして、すぐに気持ちを切り替える。
最後まで尊厳を尊重するためにも、僕が誇りある介護職であり続けるためにも、「弁える」は大事なことだ。
たとえ命が燃え尽きても、今までの僕ら二人の関係を僕の人生の1ページの中で生きていてもらうためにも。
きっと故人はそんな僕の介護職としての姿勢を、ずっと見ていてくれたはずだから。