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『不機嫌な英語たち』


書影

『不機嫌な英語たち』
著:吉原真里
晶文社刊、2023年
 
 著者は1968年ニューヨーク生まれ。その後、東京で育ったが、父親の転勤のため11歳から13歳までカリフォルニアで暮らした。帰国後は東京大学を卒業、ブラウン大学で博士号を取得し、現在はハワイ大学アメリカ研究学部教授という経歴だ。専門はアメリカ文化史、アメリカ=アジア関係史、ジェンダー研究、と本書の著者紹介には書かれている。『親愛なるレニー――レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』で河合隼雄物語賞と日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している彼女だが、「論文や研究に求められる『正論』ではなく、自分にとっての『真実』を書こうとした」のが本書だと、著者は出演したラジオ番組で語っている(TBS「荻上チキSession」2024年3月21日)。本書のカバーにも「『ちょっといじわる』だった少女にとっての『真実』」とある。

 前半は、親の都合で連れてこられたアメリカ、カリフォルニアで英語に奮闘する日々と帰国して編入した私立校での経験が、後半では大学卒業後に自分の意思でアメリカに渡ってからの生活が書かれている。前半で印象に残るのが「こちら側の人間」という章だ。英語に不自由することがなくなって、両親をはじめ英語が自分よりも劣る周囲の人間をばかにするようになり、「こちら側の人間」になった自分に安堵する。正直、読んでいて気持ちのいいものではない。たしかに「ちょっといじわる」。しかし、率直だ。
 この「こちら側の人間」という話そのものはそこで終わり、その後直接触れられることはない。しかし、「こちら側」という意識は本の最後までずっと通じているようだ。後半、アメリカで暮らすようになってからの部分で語られるエピソードには、人種、ジェンダー、社会階層、英語の能力と、アメリカで生きる上で問題になるさまざまな要素が含まれているのだが、語り手の立ち位置はあくまで「こちら側」だという印象を受けた。アジア人であっても英語ができる、女性であっても大学教授として社会的地位を得ている、といった具合に。「あちら側」に位置づけられそうになってもそれに抵抗し、頑として「こちら側」にとどまり続ける。

 著者は先に挙げたのとは別に出演したラジオ番組で「日本とアメリカ、日本語と英語が全体のテーマではあるが、二項対立ではない」と語っているが(Tokyo FM「Blue Ocean」2024年3月19日)、この一冊の主人公にとって「こちら側」と「あちら側」の対立は厳然と存在するのではないだろうか。とはいえ、それは「アジア人である私」と「白人のアメリカ人」であったり、「アカデミアに職を得ている女性である私」と「肉体労働に従事する男性」であったり、「英語のできる私」と「英語に不自由している誰か」であったりと、その時々で変わるので、一筋縄でいくものではない。終盤の「続 私小説」という章には「『日本の自分』と『アメリカの自分』、『日本語の私』と『英語の私』を同時に生きているのだ」という文がある。二項対立ではなく、同時に、あるいは二重に言語や属性が存在するさまは、私が出会ってきた帰国子女ともThird Culture Kidsともまた別の何かだと感じた。これが何かが分かったら、「真実」も分かるかもしれない。

 さて、この本にはところどころセリフが英語のまま書かれているだけでなく、何か所か英語だけのページがある。これがなんとも非常に読みにくいデザインで、判読するのも一苦労なのだが、読んでみるとこれがなかなか大切な内容だ。著者はまた別のラジオ番組で「読まない人は読まないでいい」と話していたが(Tokyo FM「Lifestyle MUSEUM」2024年3月22日)、日本語しか読まない読者に伝わらないのはとても残念だと思った。「you could try writing to the publisher」という一文もあるので、内容を知りたい人は版元の晶文社に手紙を書くことを私からもおすすめしたい。

by Y


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