クール・ビズこそ マナーが大事 -メディアが見たイメージ戦略 vol 4- :『PRIR』寄稿記事
※本記事は『PRIR』 8月号(2005年)に掲載された日野江都子の寄稿記事からの転載です。
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2019年7月28日現在の所感
クール・ビズが導入された2015年の、『PRIR』(宣伝会議)8月号(7月発売)に寄稿した本記事、ということは、6月に開始になって早々に執筆した内容である。
14年後の今、読み返して驚愕したのは、筆者が未だにクライアントや世の中に向かって同じことを言い続けなくてはならないでいるという事実。
日本という国は、様々な情報スピードが速く、いち早くトレンドに乗る国にもかかわらず、根本のところでは自らをアジャストすることを非常に不得手として、さらには自分たちで考えて選択・行動する事に自信を持てない人の多い国である事が、ここで証明されてしまっている。
どこか頑ななのは、全ては失敗したくないという自信のなさからくる事なのかもしれない。
それにしても・・・14年もの間、何をしてきたのだ、日本のビジネスパーソンたちよ。
そんな日本の内情など御構い無しに、世界的に装いのカジュアル化は止まることなく、どんどん進んでいる。その上、日本の夏は年々酷暑となり、大手メガバンクでは、米ゴールドマン・サックスの影響なのか、クールビズではなくドレスコードを取り払うという試みをテスト的に開始している。
誰かに指示されたり、決められた事を行うのではなく、自らの意思で確固たる理由を持った自分の立場や役割文脈の仕事場における「自由な装い」が何かを、考え・選び・装う時がきてしまった。
気候のせいで、面白くも恐ろしい時代の到来。
自由が与えられた時、その人の価値観・判断力・良識・知性・教養がにじみ出る事を、しかと肝に命じなくてはならない。
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6月1日の衣替えを機に、世間でも取り入れられつつある「Cool Biz(クール・ビズ)」。涼しさのクールと格好良さのクールを兼ね備えたBiz(ビジネス)シーンの装いであるという。ここで、このクール・ビズ・スタイルの根本的な目的と、理想的な取り入れ方、基本かつ必須のマナーについて再確認していただきたい。
蒸し暑い日本の夏を涼しく過ごすための方法は2つある。「自分だけが涼しく感じられれば良い」という、自分中心的な方法と、「自分だけでなく他人をも涼しく感じさせる」という“もてなし”も目的に含んだものだ。
今回施行されたクール・ビズの現在までの様子を見て、私が感じているのは、ほぼ前者。自分が涼しく感じるためだけの涼、なのである。自分が涼しく感じること自体は非常に大切な目的であるし、涼しく感じられれば、仕事上の能率も上がるうえに、エアコンの温度設定も高くできるから、環境にもやさしい。しかし、それだけで良いのだろうか? 「装うこと」すなわち「イメージ戦略」の重要性が失われていないだろうか?
国会議員の方々のクール・ビズ・スタイルを拝見すると、その威厳の無さと、立場と状況を判断することのできなさが目についてしまう。教えてもらわなければ、その方がどこの誰であるのか分からないくらいのクラースやプレステージの無さである。まるで、いきなり自由を与えられて、アワアワしてしまっている子どものようだ。世界中に配信されているニュースにこのような「?」な画像が乗せられていると思うと、国際化社会・先進国日本のイメージは急落するだろう。自覚と責任の無さを感じるばかりである。
首元の通気性をよくすることで涼が取れるのであれば、「ネクタイを外そう」との動きになるのも分からないではない。しかし、締める部分を1つ無くすのであれば、今までそこで印象作っていた「きちんと感」を、ほかの部分で補うことが必要になる。そうでなければ、箍(たが)が外れた、ただのだらしない格好に成り下がってしまう。
装いとは、自分を表したり自らのモチベーションを高めるツールであり、同時に自分が見るよりも人が見ることの多いものだ。自分が良くても、見る側の人が不快であれば、それは社会生活の基本としてルールに反している。極端な話、自分はとても涼しいとしても、他人がそのいでたちを非常に暑苦しく感じるのであれば、クール・ビズの本来の意味として大失敗と考えるべき。なぜなら相手に視覚的な熱さを与え、温度を上げてしまう公害になってしまうからだ。
クール・ビズはあくまでビジネスシーンでの装い。それに必須なのは、ただ単にネクタイを外すだけでなく、それぞれのビジネスシーンに適したイメージを保ちつつ、人が“涼”も“格好良さ“も感じるような、適切な色・形・素材感・香りを取り入れることである。自分も他人も涼しく感じる、格好良い服装をする。これこそクール・ビズ。
どのようなクール・ビズ・スタイルを装うかで、当初の目的でもあるエコロジー、ビジネスシーンでの周囲 への配慮、そして知性とセンスが一目瞭然。自由になったときの選択にその人の良識が垣間見られる。