バイオレンスデモクラシ

や、大した話ではない。


「言ってみれば、多数派民主主義が発生しうるのは以下の二つの条件が同時に満たされた場合なのだ。

一、人びとが集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚の存在、そして

二、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置の存在」

(デヴィッド・クレーバー著『民主主義の非西洋起源について ―「あいだ」の空間の民主主義』片岡大右訳、以文社、2020年 p.46)


 クレーバー曰く、上記の一を満たす共同体はいくつもあったが、そのような共同体が民主主義のシステムを発達させるわけではない、とのこと。

民主主義というのはつまるところ多数決だから、必ずその決定事項に賛同しない集団を生み出す。その集団対し、民主的に決定された法に従ってもらうには、確かに彼らの自発的服従に期待するだけでは、危ういだろう。

これは暴力装置が大事、ということではなく、暴力の集団管理が大事、という話でもある。

ある特定の勢力が自らの恣意によって暴力装置を操作できてしまう場合、対抗勢力が多数決によって法を通したとしても、暴力装置が見て見ぬふりをしてしまうので、その法が実効力を持たなくなる。

話が飛ぶようだけれども、公務員倫理ってのは、そういう意味で大事なんだな、と。市民が公務員倫理を叫んで特定の誰かを糾弾しているのを見ると、なんだかいたたまれなくなるし、他方、愚かな政権の命令に忠実に従って答弁をする官僚を見るときもいたたまれなくなるのだが、時の政権に対する好嫌の感情に左右されずに在る、というのは大事なことである。

しかし、愚かな政権が嘘をそそのかすよう指示したならば、公務員倫理によって、それに背いても良いはずである。

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