夢と貴族

民く、デヴィッド・クレーバー著『民主主義の非西洋起源について ―「あいだ」の空間の民主主義』(片岡大右訳、以文社、2020年)のpp.56-57より。

「ローマ共和国の理想が合衆国の国制のなかで顕揚されているけれども、体制設計者たちは完全に自覚的に、ローマの『混合体制』―君主制、貴族制、民主制の諸要素のあいだで均衡をとった―を模倣しちようと努めていた 。ジョン・アダムズがよい例だ。彼は『憲法擁護』(一七九七年)において、真に平等な社会など存在したためしがなく、歴史上知られたすべての人間社会には最高指導者と貴族階級(富による貴族であれ美徳ある「生得の貴族」であれ)と庶民が見出されるのであって、ローマの国制こそはこれら三者の勢力均衡において最も優れたものなのだと主張した」

こりゃ、その通りだよ。現代でも結局、この「混合体制」が、隠れた形で続いている。そうして「庶民」の自意識を持つ者たちの一定数はいつでも「貴族」になろう、と夢を見ているし、そういう夢が成立するような言説が供給されている。貴族っていうのが大体、「時間を経た金持ち」なのだから。これは、皇帝だって天皇だってそうだ。「時間」の尺がそれら君主クラスになると、特段に長くなるというだけである。

それで、近現代社会における「夢」っていうのが、本当に特殊な言葉だと思うのだけれども、実質、そういう意味を成しているが、誰でも夢を「見る」権利があるという意味で、平等主義の皮を被っている。夢を「叶える」ことができるのは、一部であって、それが「貴族」である。

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