【掌編小説】金魚とビー玉
☆簡単な恋のおまじない☆
ビー玉を持って、ビー玉越しに相手の写真を見てください。
そして「(相手の名前)は(自分の名前)に夢中になる」と3回唱えてください。
ビー玉が壊されたり、誰かの手に渡らないように、大切に保管してください。
ビー玉が無事な限り、相手はあなたに夢中です。
***
午前最後のカウンセリングを終え、次の勤務先へ移動しようと腰を上げたところで、誰かが相談室のドアをノックした。
「はい」
ドアを開けると、「来校者」のネームホルダーをさげたスーツ姿の男が立っていた。50代前半くらいだろうか、銀縁のメガネをかけ、白髪交じりの短髪を刈り上げた小柄な男だった。
「申し訳ありません、保護者の方のカウンセリングは予約制で。」
「あぁ、違うんです。ちょっと落とし物をしまして。」
「落とし物ですか?」
何を?と言おうとしたところで、右足裏に何かを踏んでいるような違和感を抱いた。
覗き込むと、ビー玉を踏んでいた。
「あっ…」
「それです、それ。」
男は満足気に微笑んだ。
「踏んでしまって、申し訳ありません。」
ビー玉を拾い上げ、ハンカチで拭ってから男に手渡す。男は傷がないか確かめるようにビー玉を眼の前に掲げて覗き込み、ふむ、と一息ついて胸ポケットに手を伸ばした。
「わたしのような人間に会うのは初めでですか。」
「はい?」
「申し遅れました、県立高等技術専門校の八木といいます。」
男が差し出した名刺には、学校名と所属先であろう「人材課 職業能力開発班」そして「八木 真」という名が記されていた。
「あぁ、学校のことは存じております。わたしは、スクールカウンセラーの長谷部と申します」
会釈をして名乗ってから、自分も名刺を渡さねばと慌てて相談室の中に引き返し、鞄に手を伸ばした。
八木が、背を向けたままのわたしに問う。
「本校で学んだご経験はありませんよね。」
「…?…えぇ、ありません。」
振り返り、名刺を手渡す。
「他校と掛け持ちなので、こちらは月に数回の勤務ですが。よろしくお願い致します。」「長谷部…?史緒里さん。」
八木が怪訝そうに名刺と私のネームプレートを見比べる。わたしは自らの失態に気が付き顔を赤らめた。
「失礼しました!お渡ししてしまったの、旧姓の名刺です!結婚して、今年度から苗字が変わって。」
八木は納得したように頷く。
「ここまで独学でやってこられたとは、なかなか。一度体系立てて学ばれれば、ますます能力に磨きがかかりそうですね。」
名刺から目を上げた八木がじっとわたしを見つめた。身長がほぼ同じくらいなので、まっすぐ視線がぶつかる。
「いえ、独学ではなくて…。これでもきちんと臨床心理士の資格を取っていますよ。」
失礼なことを言う人だ、と若干睨むような目で見つめ返してしまった。
「わたしが言いたいのは、こちらの『力』の話ですよ。」
八木がわたしの名刺をヒラヒラと振ると、パッ、と手品のようにビー玉に変わった。
「わたしはね、『職業能力開発班』というところの所属なんです。」
「手品の訓練も担当しているんですか?」「いいえ、俗っぽい言い方をすれば、『魔法』です。」
「はぁ…」
怪しい一言に、つい、一歩下がって距離を取る。しかし、耳元で自分の心臓の音が感じられるほど、鼓動は早まっていた。
「勿論、主な業務は一般的な就労支援、資格取得支援です。でも、時々あなたのようにちょっとした『力』を使える人がおられるので。そういう方を見つけたら、別で能力を伸ばすお手伝いもしています。おそらく、思い当たることがお有りでしょう。」
八木の言葉と同時に、稲妻のように夫の姿が脳裏に浮かぶ。
次いで、深夜の自室。ビー玉。
ビー玉を投げ入れた金魚の水槽。
「そんな、あれは…」
単なるおまじないです、と言いそうになって口を噤む。どっと汗が吹き出す。
「あぁ、別にどのように『力』を使ったって良いんですよ?罰則だってないし、使える人がみんな訓練を受けてるわけじゃないですから。ただ、お仕事に活用されるなら、ある程度訓練した方が、何かとスムーズにはなると思います。」
八木が手元で弄んでいるビー玉を見つめながら、ちがうんです、とだけ言ったつもりが声になっていなかった。真っ赤な顔で、無意味に口をパクパクさせている自分は、金魚のように見えているのではなかろうか。
八木は、そんなわたしの様子を気にかけることなく「いつでも、気が向いたらご連絡ください。お力になれると思いますよ。」と、返事も聞かずにあっさりと立ち去った。
八木とは対照的に、わたしはしばらくその場から動けずにいた。
結婚したばかりの理想の夫。
夫になってくれたのは、順当に愛を育んだからだ。
そのはずだ。
「わたしは…」
言葉を探しなから、握りしめていた拳を開くと、ビー玉が転がり出てきた。
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