「裏切られた」は自分の“理想像”に相手を勝手にはめ込んだ結果に過ぎない
人間関係を育んでいく上で、「裏切られた!」って感じてしまうことってよくあることだと思う。
「信じていたのに…」
「こうしてくれると思ったのに…」
でもそれって、自分が相手に期待をしすぎているだけじゃありませんか?
そもそも「裏切られた」って何?
そもそもの話、“裏切り”ってなんやろな、ということをおさらいしておきたい。
wikiで調べてみると、裏切りの定義はこう書かれていました。
裏切り(うらぎり、英: Betrayal)とは、約束や同盟関係を捨て相手に寝返る等の行為や、契約とは違った、もしくは期待はずれな事象に対し用いられる言葉。
確かに、これぞ裏切りですよね。
けど、人間関係における「裏切られた」って、特に約束を交わしたわけではないけど使われることが多い気がする。
誰かに対して「裏切られた」と感じたとき、その人とちゃんとした約束を交わした上での裏切りだったのか、見極める必要があるのかもしれないですね。
自分の“理想像”に相手を勝手にはめ込んでない?
ケースバイケースで本当に裏切られたと言い切れるパターンももちろんある。
直感で「裏切られた」と思ってしまったときは、一度冷静になって相手との関係性をもう一度振り返ってみてほしいのです。
自分の中で勝手に相手を“理想像の型”にはめ込んでいない?
そして、そこから外れてしまった相手に対して、自分が勝手に裏切られた気持ちになっているだけじゃないですか?
それって本当に相手が悪いの?
作り上げた“理想像”に相手を勝手にはめ込んだ自分は…?
自分の理想通りに動いてくれる人なんて基本はいないです。
その人はあなたじゃないから。
それなのに、自分の“理想像”から外れてしまった相手に「裏切られた」と思うのは、少し違うんじゃないかなと。
それってきっと、あなたが相手のことを信じることができていない証拠だとも思うのです。
相手を信じることができれば「裏切られた」なんて思わない
結局のところ、「裏切られた」という考え方は、お互いの信頼度が関係しているんじゃないかなって思う。
そもそも、相手のそのものを受け入れることができていれば、理想像なんてものは作られない。
仮に期待をしている部分があったとしても、相手のことを信じることができていれば、例えその期待から外れてしまっても「そういう一面もあったんだな」と受け入れることができるはず。
“期待すること”は決して悪いことではない。
ただ、 その期待の先を見たときに、「裏切られた」と思うのか、「新しい一面が知れた」と思えるのか…
それが相手との信頼関係であり、信じることなんじゃないかなと思う。
最終的に大切なのは、“揺るがない自分”
そもそも何でこの記事を書こうと思ったのかというと…
以前芦田愛菜ちゃんが受けていたインタビューを見て考えさせられたものだったり。
芦田愛菜ちゃん、“信じること”についてこんな感じで語っていたんです。
その人のことを信じようという言葉をよく使うと思うのですが、それってどういう意味なんだろうと考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、自分の思う理想像を期待してしまっているのではないかと感じました。だから、『期待していたのに』とか『裏切られた』というような言葉が出てきてしまう。でも、普段見えなかった側面が見えただけで、裏切られたわけではないのかなと思います。知らなかった側面が見えたときに、それもその人なんだって受け止めて決断できる揺るがない自分がいる。それが信じるっていうことなんだと思いました
引用:https://eiga.com/movie/92245/interview/
一時期話題になりましたよねコレ。
いや、芦田愛菜ちゃん、人生何回目っすか?というほどの寛大な回答…。
芦田愛菜ちゃんって何歳だっけ、って今調べたら、2021年4月時点で16歳なんですってね…。
嘘やん…
16歳の考え方とは思えないほどの成熟具合ですよね。尊敬の域です。
「裏切られた」と傷付かない自分になるためには、第一に相手を信じることが大切であり、
そんな相手を信じるためには、どんな側面が見えても「これがこの人なんだ」と受け入れることができる“揺るがない自分”が必要なのだと。
まさか16歳の子からそんなことを学ぶとは思わなんだ…。
私も、恋人や友達、家族、その他色々な人たちに「裏切られた!!」って思ってしまうことがたくさんあった。
その時は自分のことなんて全然考えていなくて(むしろ自分のことしか考えていなかったのかな)完全に相手を悪者にしていた。
そんな気持ちがとっても苦しくて、生きづらかったですねェ…。
人間って、考え方や受け入れ方次第でこんなにも生きやすくなる!
生きやすい人生を選択するのも、全部自分。
自分を信じて揺るがない人生を歩んでいきたいよね。