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物理学者は山で何を考える
J S.トレフィル著/山越幸江訳/1988年7月 地人書館発行
僕がまだ独身だった20歳代の後半、とあるきっかけで東京都山岳連盟の登山教室に通い、毎週と言っていいくらいのペースで山に入っていた。年間で50日を超える日々を山で過ごしていたが、ちょっと考えることがあった。山登りというのは、急勾配の上りだったり岩だらけの下りだったりする時に仲間とパーティを組んでいてもそんなには会話をする余裕はない。沢登りでザイルを使って確保し合うようなときは声を出すが、それだって世間話をするわけじゃない。
そんな時に例えば、同じ山なのに富士山や阿蘇山のように火山の山と丹沢や大きく言えばヒマラヤのように火山じゃなくて地球のシワみたいな山とあるのはどういうことかとか、木曽駒ヶ岳の千畳敷カールや穂高の涸沢カールなどは地上ではお目にかかれない景色だけれどどうやって出来たんだろうか、などと思いながら黙々と思いザックを背負って危険な足元に注意を払いつつ、なおかつ登山道から見晴るかす遠くの稜線なぞに視線をやったものだった。
そんな時、たまたま書店で見つけたのがこの本。物理学者でもプロのアルピニストでもないけれど、物理学者が山登りをするなら、一体、何を考えるんだろう。という訳で読んだものだった。当然、予想できるのはプレートテクニクスやアルフレッド・ウェゲナーの大陸移動説がある。さらに海抜3,000mの地点で休息し、景色を楽しみながら思索にふける。なぜ山があるのだろうか?なぜ、山にのぼるのかと聞かれ、「そこに、山があるからだ」と答えたとイギリスの登山家マロリーが言ったというが、しかし、山は永久不変のものではない、とか、地球の岩石の起源についてとか、天体望遠鏡がなぜ山頂に設置されるのか、空気が住んでいるから?では空気が澄んでいるとはどういうことか、さらに隕石の話など。
そうか、こういうことを考えながら山登りができたら面白いだろうなと感心したものだった。最後にひとつ、著者によれば「伝統のある文明には、必ずと言って良いくらい、山頂に登って悟りを開く英雄の物語が存在する。」だそうだ。