生み出すことへのこわさと、生まれたことの罪を背負うこと。
先日、アーティスト仲間でもある友人たちと話題に上がったことから、紐づいて私の中で深堀りされていったことを書いておこうと思う。
自分の分身であるアートを生み出すことが恐怖で、アート作品を生み出すことに毎日向き合いながらも発狂している、という友人のシェアから話ははじまった。
作品作りが苦しすぎてもうやりたくない!辞めたい!といつも思うんだよねーという友人。
そして、それに対して、めちゃわかるー!ってなる私ともう1人のアーティスト仲間の友人。
作品て自分自身だもんね、、、なんて話しながら
ふと、私はとある感覚とそのアートを生み出す怖さの感覚を重ね合わせて感じていた。
それは
出産!
はじめて子どもを身ごもり産まれるまでの期間
私はこの恐怖と戦い続けていたのだ。
それはもう18年も前の話だけど、鮮明にフラッシュバックしてきていた。
そうだ、もう生み出すことから逃げたくて逃げたくてそんな怖さを抱えたまま妊婦生活を送っていた。
私は、昔からそんなふうに、ちょっと変なやつだったかもしれない。
だって、赤ちゃんが産まれてくるのってなんだかハッピーで希望に満ちているのが普通ならば、私はそのかすかな希望と共に絶望にも似た感覚を恐怖とともに抱えていたのだ。
自分自身がこの世界に何かを生み出してしまうことへの恐怖は、この不自由な三次元の物質セカイに自分以外のなにかを生み出してしまうという罪と、そこへの取り返しのつかない責任を背負うことでもあるような気がした。
本当は、罪なんかじゃないのだろうし、むしろ希望でもあるのだろう。
これこそ、陰と陽が一体となって現れる現象なのだと思う。
そこに良いも悪いもなく、ただ、統合して産み出された奇跡の結晶があるのみなのかもしれない。
陰陽を統合したからこそ産み出されるもの、
それは、他ならぬ分離だ。
統合は新たな分離であり、分離は新たな統合のきっかけとなる。
メビウスの輪のように続いていくこのパラドックス。こんなこの世界の仕組みを探究する深堀りの旅がたまらなく楽しい。
私が私のコアと繋がる宇宙を旅している感覚だ。
話を戻して、今これを記事にしたのは
私が今お世話になっているコンサルタントの翔ちゃんがこんな記事を書いていたからなのだけど。
ビジネスを通して、現実を産み出す、という“ 創造 ”もまた、生み出すことでありアートだなと思う。
私たちがこの世界に生きることは全てがアートだなと思うのだ。
誰しも、本当の自分自身を生きることはこわい。
怖いけど、それは望みでもあるだろう。
それはある意味この世界に生み出された自分自身という肉体の罪(母親が背負った罪)を自分自身が引き受けて“ 自立 ”=“ 分離 ”していくことなのだろう。
自分自身という個を完全に生きることが腑に落ちた時、ある意味これが本当の母親との分離であり自立なのかもしれない。
これは言い換えたら、
この不自由な三次元で自由になることでもある。
肉体を持ちながらにして、自由自在であるということを味わえる、自分の世界を創造する第一歩となる。
その一歩を踏み出す時、罪は既に罪ではなく
この世界の光に変わっていることに気づくだろう。
まさに今、そんな自立をして今までの全てを力にし、自らの宇宙を創造していく人達がどんどん増えていくとき。
ここから数年で、新たな時代が始まっていくんだなと思って眺めていたりする。
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