【短編小説】龍の影に酔う
「起きなって」
目を覚ますと、サエが顔を覗き込んでいた。幸汰は目を擦りながら上体を起こした。
「あと1時間で店開けるんだから急ぎなよ」
サエはそう言って部屋を出た。タッタッ……と階段を下りる足音がよく響いた。サエを見送り、幸汰は枕元へ目を遣った。乱雑に破かれた封筒から便箋が覗いていた。
幸汰は昨日会った兄の香輔を思い出した。唯一連絡先を知っている肉親であった。実家を出てからロクなやり取りもなかった兄からの突然の用件が、その封筒と便箋であった。
喫茶店で兄弟は互いに近況報告や他愛もない話をした。会う前は気乗りしなかった幸汰であったが、気付けば2時間も話し込んでいた。結局本題は帰り際まで持ち越された。
「父さんからだ」
香輔は言いながら封筒を取り出した。幸汰が受け取るのを確認し、香輔はじゃあな、と手を挙げながら背を向けた。
果たして封筒の中身は父からの手紙であった。
来週の土曜までに家へ顔を出さねば勘当する、そういう旨であった。勘当、などという時代錯誤な言葉に幸汰は失笑した。
幸汰の実家──簀賀家は豪農の流れを汲む、所謂名家とか旧家とか呼ばれる家系である。そのため、簀賀家では未だに旧式の伝統やしきたり、価値観が蔓延っていた。香輔はそれを嫌い、家を出た。
幸汰も同様にそういった因習を疎んで家を出たのであるが、香輔とは随分と趣を異にしていた。親を見返すだとか、家の力なしに大きくなるだとかいう野心を持っていた香輔とは違い、幸汰はただ家から離れたいだけであった。その差は2人の現状によく表れていた。香輔は会社を立ち上げ、上手くやっているようだ。金を持つと人は寛容になる。生活の余裕と人格の余裕は直結している。嫌って自ら遠ざけたにも関わらず、香輔は父や実家と仲が良い。父からの手紙をわざわざ幸汰へ手渡しに来たのも、その証拠と言えよう。対して幸汰は会社を起すどころか定職にも就かず、28になって尚、スナックに住み込みでバイトをしている。
父の昔気質な性格をより濃く受け継いだのは幸汰の方であった。彼が一向に実家へ戻ろうとしないのもそのためである。元より2度と帰って来ないつもりで家を出たのだ。だから今更勘当などと言われても、幸汰には何の衝撃や損害でもなかった。寧ろ、勘当という言葉を持ち出せば帰って来ると思われているのだろうか、などと勘繰り、却って家への足取りは重くなっていた。
幸汰のそういった性格は、彼の人生において明らかに支障を来していた。大学を卒業して直後、幸汰はファミレスでバイトを始めたのであるが、3ヶ月も続かなかった。横柄な客や上司の理不尽な怒りへ平身低頭する気概が幸汰にはなかった。その種の諍いが頻発し、挙げ句自ら啖呵を切って辞めたのである。
どこへ行っても幸汰は同様であった。災いしたのは、幸汰がただの頑固ではないことであった。幸汰は人並みの分別を有していた。ただ、それを踏まえた上で我を通そうとするのである。客と揉めた後、幸汰はきちんと謝る。しかしそれはあくまでも自らの発言によって他人へ迷惑を掛けたことに対してであり、自らの発言そのものを詫びるのではなかった。
家を出て初めの1年は、実家から仕送りがあった。幸汰は当初、決して使うまいと腹を括っていた。しかし、先述の通り問題を起こして辞める、を繰り返していた幸汰に大した収入はなかった。仕方なく幸汰はその金に手を付け始めた。
2年目には仕送りもなくなった。この時も父から手紙があった。内容は昨日のものと似ていた。勘当する、が仕送りを止める、に変わっただけであった。幸汰は当然のように看過した。
4年目になり、とうとう首が回らなくなった幸汰は、アパートを追い出され、路頭を彷徨った。
何も食わないまま3日が経とうとしていた。そこへ雨が降ってきた。飢えに加え体温の低下は堪えた。幸汰はやがて倒れた。
幸汰は見覚えのない部屋で目覚めた。草臥れた布団から知らない匂いがした。腹は減っていたが、寝たことで少々動ける程度の体力は回復していた。
部屋を出ると、狭い廊下へ出た。右手の突き当たりに小窓、左手に階段があった。かなり小さな建物であった。その階には自分のいた部屋の他にもう1つ部屋があるのみであった。幸汰は恐る恐る階段を下った。
下った先でまず目に入ったのは小さなカウンターであった。背もたれのない丸椅子が4つ、その後ろにテーブルが1つと、椅子が2つ。最大でも6人しか入れない計算である。
水の流れる音がした。ドアが開き、女性が手を拭きながら出て来た。胸元の開いた赤いドレスを着ていた。
「起きたの」
気怠くハスキーな声で彼女は言った。
こうして幸汰がサエと出会ったのが3年前である。
サエは幸汰の行き倒れていた経緯や生い立ちについて深くは聞かなかった。幸汰が自ら話そうとした時などは、
「身の上話は聞き飽きてんの」
と相手にしなかった。
幸汰の身上を聞きたがらないのと同様に、サエもまた、自分についての話を嫌がった。どういう紆余曲折があって現在に至るのか、幸汰には皆目見当がつかなかった。34才で、幸汰の寝た部屋ではない方の1室で暮らしているという他にはサエについては何も分からなかった。
幸汰自身、別段知ろうともしていなかった。余計な詮索も、いらぬ気遣いもない乾いた関係が幸汰には心地良かった。自分は幸汰、彼女はサエ。その2つさえ分かっていれば十分であった。
幸汰とサエとの会話は挨拶や業務上のものに留まった。しかし、そういった最低限の会話だけでも、サエの度量の大きいことは知れた。
サエのスナックで働き始めてからも、幸汰は1度大きく客と揉めたことがある。サエへ下品に絡む客を叱責したのが発端であった。客は大いに憤慨し、金も払わず帰っていった。閉店後幸汰が謝ると、サエはカラカラと笑った。
「いいのよ。あの人ずっとああだから。あたしも嫌気が差してたし」
心から気にしていなさそうな口吻に幸汰は驚いた。客と揉めた後、咎められなかった試しはない。必ず叱られていたのだ。大抵は「次からは我慢しろ」と言われ、そこへ更に反発し、客の次に上司と諍うことになっていた。
サエのスナックは存外繁盛していた。勿論、1度に入れる客は少ないので特別稼ぎの大きいわけではなかったが、客の少ない日は珍しかった。幸汰を雇い、住まわせながら質素な生活を営むに十分な収入はあった。
男女が共に暮らしていると、邪推する客は多くいた。聞かれる度に2人は否定していた。幸汰がサエを好ましく思っていたのは無論であるが、彼はその好意の恋愛感情でないことを確信していた。
幸汰には少々考え過ぎるきらいがある。学生時代、幸汰は恋愛について深く考えたことがあった。何を以て恋愛とするか、その曖昧な疑問への解答を探っていた。
熟考の末、幸汰は思い至った。何を以て恋であるか、自分でその基準を定めてしまえば明瞭である。そこで幸汰は自らに判断基準を設けた。
幸汰にはある秘密があった。家族や友人を含め、これまで1度も他人へ話したことのない秘密である。それを打ち明けてもいい、そう思えた時、幸汰は自らが恋をしていると断ずることにした。
確かに、その感情は今の所サエへ生じたことはなかったが、それはサエの必要以上に話をしない性質も手伝ってのものであった。幸汰自身もそこに気付いてはいた。しかし、秘密を明かそうと思わない限りは恋愛でないのである。そう決めたのだから。幸汰は厚く信じていた。持ち前の頑固がここでも作用していた。
幸汰の秘密、それは彼が家を出た最大の理由でもあった。
幼少期、幸汰は龍を見たのである。
幸汰の実家、簀賀家の屋敷は田舎にある。一面に田園風景の広がる、絵に描いたような田舎であった。屋敷の裏手には山があった。幸汰はそこへ入るなと強く言い付けられていた。言うまでもなく危険だからである。
しかし、行くなと言われれば行くのが子供の性、幸汰は山へ踏み入り、案の定迷子になった。自分がどの方向へどのくらい進んでいるのか、鬱蒼と茂る木々はそういった感覚を狂わせた。やがて空が赤くなってきた。日が暮れかけていた。
斜陽を遮る木々の影で森の中は一層暗くなっていた。幸汰は俄然怖くなり、その場へ蹲った。やがて幸汰は号泣した。いくら泣けども、木々がさわさわと揺れる音が続くのみで、それが却って孤独を浮き彫りにした。幸汰は死を予感した。その時であった。
木々が一際大きくざわめいた。強い地鳴りのような音が響いていたが、地面というよりは空気の揺れているのを感じた。忽然と視界が暗くなった。天に蓋がされたようであった。幸汰は見上げた。
巨大な注連縄が、うねりながら宙を踊っていた。その表面は金箔を散りばめたが如く燦めいていた。注連縄は凄まじい速さで頭上を通り過ぎていく。しかし、一向に果てが来ない。途方もなく長いのである。
眺めている内に、幸汰はそれが縄にしては硬質であり、独特の光沢を有していることを発見した。撚りの模様に見えていたそれは、鱗であった。
途端、空が開けた。滑らかに流動する白金の終端には、鰭があった。
老熟した松の枝を想起させる雄大な角。真珠の艶と氷山の鋭さを併せ持つ牙。羽衣に似た髭や、深緑の荒々しい鬣が風に靡く。炎を湛える硝子球のような双眸で爛々と天穹を見据えながら、1匹の龍が夕暮れと夜の境を旋回している。神々しく大空を泳ぐ超常の姿態に、幸汰は息を呑んで見惚れた。
龍は咆哮した。その声は清澄に轟き、幸汰の全身を揺らした。龍はそのまま急速に上昇し、彼方へ飛翔し去った。勇ましくも苛烈な幻獣の一挙手一投足に、幸汰は打ち震えた。
この後気付けば家で寝ていた、などという話であればいかにも夢や幻とでも言いたげであるが、幸汰は龍を見たその足で家へ辿り着いたのである。龍の飛び去った後、幸汰は歩く気力を取り戻し、闇雲に足を繰った。そして偶然舗装された山道へ出たのだ。龍を見たのが幻ならば、今自分が生きているのもその延長だということになる。幸汰はそう信じてやまないのであった。
幸汰は龍に強く心を打たれた。簀賀家というのは大きな存在なのだろうと、幼いながらに理解していた。だが、あの龍に比べれば、悠久の空を縦横無尽に駆け巡る超然の存在の前では、大地に縛られ、些事に喘ぎ、ちょこちょこと右往左往する我々の、その中で偉いだなんだと威張り合うことの滑稽さが際立つ。全ては取るに足らないのである。そういう想念が、まだ10才にも満たない少年の頭をがっちりと押さえて離さぬのであった。
幸汰はこの龍の話を誰にもしないでおこうと決めたのである。信じてもらえぬであろうし、馬鹿だとか混濁しているだとか揶揄されるであろう。しかし、それよりも、幸汰はこの経験を己の内に留め、自分だけの思い出とすることへ特別の意義を感じていた。それは全く奏効していた。気の沈む時、勇気を持って挑まねばならぬ時、決まって幸汰は龍を思い出した。自分は龍を見たことがある、心中にてそう唱えるだけで奮い立った。
また、龍を強く恋う心は幸汰の反発する精神を育んだ。しきたり、因習、それらに囚われ、やれ誰が家督を継ぐだのやれ簀賀家としての面目がどうのと、そんなことを言って何になる。そんなことにかかずらって鳩首凝議した果てに生まれるものは何だ。世間体、阿付迎合、狭い領域内で力を持って威張り散らして得た権威、それは一体何か。具体的事実として、それが一体何だというのだ。彼の中で家への嫌悪は募っていった。いつまでも簀賀家にいては自由に、龍のように駆け回ることなどできやしない。常にそう考えていた。
水曜は定休日である。幸汰は昼過ぎに起きて本を読んでいた。すると、サエが部屋へ入ってきた。滅多にないことであった。
「お兄さん、来てるわよ」
幸汰は急いで階下へ向かった。サエの言った通り香輔が来ていた。
「ちょっといいか」
香輔に連れられ、幸汰は喫茶店へ着いた。父からの手紙を受け取ったのと同じ店であった。香輔は早々にコーヒーを頼んだ。幸汰はコーヒーに加えてチーズケーキを注文した。起きてから何も食べていなかった。
「お前、戻って来る気あるのか?」
幸汰は面食らった。あまりに単刀直入な切り出しであった。香輔は真剣な面持ちをしていた。
「さあ」
言いながら幸汰はチーズケーキをフォークで刺した。
「お前の性格は何となく分かってる。帰って来るつもりないだろ」
返答の代わりに幸汰はチーズケーキを口へ運んだ。香輔はあのな、と言ってコーヒーを啜った。
「父さんはお前の縁談を進めてるぞ」
流石に2口目へはいかなかった。幸汰はフォークを持って硬直した。
「頼むから戻ってやってくれないか」
「嫌だよ」
「お前ももう28だろ。いつまで意地張ってんだ。父さんが進めてる縁談の相手、中々器量のいい娘さんだぞ。簀賀家の花嫁候補に挙がるくらいだから家柄もいい。父さんを安心させてやってくれよ」
「縁談ってことは僕に家督を継がせようとしてるってことでしょ。それ聞いてより帰る気が失せたよ。元からないけど。そういうのが嫌で家を出たんだ。それは兄さんも同じ筈だろ。何を今更家のために……」
香輔は大きく溜息を吐いた。
「サエさん、だったか」
幸汰は香輔がサエの名を口にすることへ明確な不快を覚えた。自分だけの居場所へ忌避すべき簀賀家の因子が介入したのが堪らなく嫌であった。
「付き合ってるのか」
顔をしかめた幸汰へ香輔はもう1つ息を吐いた。暫し沈黙が流れた。やがて香輔は鞄へ手を遣り、
「100万ある」
そう言って茶封筒をテーブルへ置いた。
「俺は家を出て成功した。こんな風に100万をポン、と手渡せるくらいには。欲しいならもっとやる。俺は、自分が満たされて初めて、家族へ何かしてやらなきゃいけないと思った。父さんはお前が戻って来るのを望んでる。お前も今の生活を続けるより、簀賀家へ戻って家督を継いだ方が裕福に暮らせる。だから戻って来てくれ」
香輔は頭を下げた。幸汰は辟易した。ふざけるな、と怒鳴りたい気持ちをどうにかコーヒーと共に飲み下した。
「とりあえず今日はそれだけ言いに来た」
香輔は卓上の茶封筒を幸汰の方へ押し遣ってから立ち上がった。
「考えといてくれよ」
その言葉とコーヒーを半分程残して香輔は帰った。幸汰は黙々とチーズケーキを食べた。店を出る時、香輔が幸汰の分の代金も払っていたと知り、苛立った。
スナックへ帰ると、サエがキッチンにいた。
「おかえり」
幸汰はうん、とだけ返して階段へ向かった。
「炒飯作ったけど、食べる?」
幸汰は振り返った。
「お兄さんと何か食べて来たりした?」
サエの何か言いたげな様子を察し、幸汰はカウンターの席へ着いた。サエは皿を2つ持ってキッチンから回ってきた。
「ごめんね」
座るなりサエは言った。
「手紙読んじゃった」
炒飯は冷めていた。
「乾いた洗濯物部屋に置きに行ったらさ、机の上のが目に入って。勘当、とか見えたから気になって」
お茶飲むよね、とサエはキッチンへ戻った。幸汰は炒飯を1口食べた。コーヒーとチーズケーキを食べたばかりの口には合わなかった。そこへ丁度、サエがキッチンから手を伸ばしてコップを置いた。
「あんた、家帰るの?」
サエは幸汰の隣へ座った。幸汰は鞄から茶封筒を取り出した。
「100万だって」
サエの困惑した顔を見て、幸汰は些か機嫌を直した。
「これあげるから帰って来い、って言われちゃった」
「今までこういうこと聞いてこなかったけど、あんたの家、何なの?」
幸汰は自虐的な笑みを浮かべた。
「由緒正しい家系らしいよ。名家、とか旧家、とかそういうの」
あっそ、とサエは素っ気なく返した。しかし彼女は得心していた。サエは薄々、幸汰の出自に気付いていた。
幸汰が店の前で倒れていた時に着ていたシャツはハイブランドのものであった。出会いの時点で、サエは幸汰へ何者なのだろう、と疑念を抱いていた。幸汰と寝食を共にする内、彼の何気ない仕草や振る舞い──座る姿勢、食事の所作、果てはただの立ち姿に至るまでの行住坐臥──その枝葉末節から、彼の育ちの良いことは伺い知れた。元来他人の身上へ関心を寄せない彼女であったが、流石に同居人の境遇は気に掛かっていた。
「で、どうすんのよ」
サエの態度はあくまで無愛想で一貫していた。切れ長の目に流し目がよく映えた。しかし、幸汰はサエの努めてそう振る舞っているのを看破していた。ただでさえ珍しい身の上話、その奥へ一物の潜んでいることを察知していた。サエから話し始めるのを待つ意味で、幸汰は炒飯を食べ進めた。
「旦那がさ」
幸汰はびく、と体を跳ねさせた。サエは自分の爪を見ていた。
「ヨリ戻そうって言ってんのよ」
「……結婚、してたんだ」
精一杯の相槌であった。
「そ、離婚届は出してないから、別居中って扱いになんのかな」
サエは炒飯を口へ運び、しょっぱ、と呟いた。
「あたしももう34だからさ、うかうかしてたらもう40よ。行き遅れて寂れたスナックやり続けんのも、それはそれでいいのかもしんないけど、何ていうの、潮時?」
「そろそろ店閉めようかなって」
幸汰はただサエを見つめていた。彼女はそれを横目に言葉を継ぐ。
「そう思ってた時に、あんたの手紙読んでさ。丁度いいんじゃない、お互いにとって。あんたは実家に帰って、あたしは元の鞘に収まる。それでいいんじゃない」
幸汰はお茶を口へ含み、ゆっくりと嚥下した。その間に、何を言おうか懸命に思案していた。お茶の食道から胃へ伝っていく冷たい感触がいやに鮮明で気味悪かった。幸汰は意を決し、震える息を吸った。
「龍を、見たんだ」
心地良い風が何にも遮られることなく吹き抜けていく。ひたすらに田畑が広がっている。見える景色がとにかく広い。人の代わりに土地を占有するのは稲や野菜である。幸汰はそういった風景を思いの外懐かしむことができた。同時に、この土地が故郷として自らの心に蟠踞していることが忌々しくもあった。
屋敷の前まで来て俄然足が止まった。両親、とりわけ父へどのような顔をしていればいいのだろうか。自分は本当にこれでいいのだろうか。1度決めたことを曲げる不甲斐なさに後ろ髪を引かれた。
幸汰は1度屋敷から目を逸らした。青々とした山が悠然と鎮座していた。正にあの山である。あの山で幸汰は──
「龍を、見たんだ」
幸汰はサエへ自らの秘密を語った。龍を見たこと、それが家を出る理由になったこと、自身と龍にまつわる全てを打ち明けた。幸汰にとってそれは恋愛感情の吐露と同義であった。サエは彼の告白を黙って聞いていた。幸汰の語り終えた後も、茶化すことも笑うことも感心することも、ましてや彼を抱擁することもなく、ただ黙っていた。
幸汰は部屋へ戻り、泣いた。紛うことなき失恋であった。一頻り泣き終え、幸汰は帰郷を決意した。
気付くと幸汰は屋敷を通り過ぎて登山口まで来ていた。幸汰は迷いなく足を踏み出した。
暫く来ない間に登山道は整備されていた。1時間足らずで中腹辺りまで来られたのである。
しかし、ぜえぜえと息は切れていた。幸汰は自身のもう子供でないことを悟った。現実から逃れ、過去の幻影へ縋るのは終わりにしよう。息を整えて、幸汰は立ち上がった。
ごう、と風がうねった。ざわざわと木々が揺れた。空気を震わせ、荘厳を纏い、幸汰の前へ龍が躍り出た。あの時は飛び去っていくのを見ただけであったが、今回は違った。龍の顔は彼の眼前にあった。龍の目は幸汰を捉えていた。
幸汰は笑った。初めはクツクツと、喉の奥で鳴るような声で笑っている内に、段々と清々しい気持ちになってきた。やがて幸汰は高らかに声を上げて笑った。
龍はそれへ応えるように吼えた。バリバリと空気が痺れた。幸汰は構わず笑い続けた。
龍は突如、天を仰いだ。そして間髪を入れずに上昇し始めた。間欠泉が噴き上がる様に似ていた。白金の鱗、それを覆う金箔の残滓が宙へ舞った。あの時は宵の口、今回は昼日中。雲1つない晴天である。光の飛沫を散らしながら、龍は渺々たる蒼穹を果てしなく駆けていった。
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