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【短編小説】自殺と桜

 あなたが亡くなってからもう十年が過ぎました。この十年は、私にとって何も意味のない期間でした。振り返れば十年過ぎていた、ただそれだけです。これは、私が惰性でここまで生きてきたことの証左であるように思います。
 私がこれから書く文章もまた、同様に意味のないものです。生きている私にとってそうなのですから、死んだあなたにとっても無意味であることは自明でしょう。これは、惰性の集大成なのです。
 あなたがあの世にいるなどと思ったことはありません。あの世などある筈がない、いや、あってほしくありません。そんなものがあるのなら、今までのうのうと生きてきたことがあまりにも馬鹿馬鹿しくなってしまいます。もしあの世の存在を確信できたなら、私は今すぐにでも自殺します。
 繰り返しますが、この文章に意味はありません。あるとすれば、私があなたとのことを思い出し感傷に浸るくらいに留まるものです。
 あなたとの出会いから、あなたが死んでいくまで、それを私は努めて詳細に回顧します。あなたの言動を様々に矯めつ眇めつします。

 あなたと出会ったのは、橋の上でした。春先になると桜が綺麗だというので、公園に人が集まるのですが、私は、その公園を抜けた先の川沿いに桜が咲いているのを知っていました。そしてそれは、川に架かる橋の上からだとよく見えるのでした。私は人混みが得意ではなく、人が多くいると桜よりも人が目につくので、その橋は私にうってつけでした。
 その日も、そろそろ桜が咲く頃だろうとアタリをつけていました。少し浮かれた足取りで雑沓をすり抜け川へ向かうと、橋の欄干に腰掛ける人影が見えました。私は初め、鳥か何かを人と空目したのだと思いましたが、近付くに従ってハッキリと人の輪郭を持ち始めたので、確かに人が欄干に腰掛けているのだと認識しました。
 そこで初めて、私は彼の人影の奇っ怪さを確かめました。彼は川をじっと覗き込んだまま、前後にフラフラと揺れているのです。あと少し前に傾けば落ちてしまいそうに不安定でした。私は心配になり彼に駆け寄りました。
「あんまり揺れると、落ちますよ」
 彼は動きを止め、顔だけをこちらに向けました。とても無垢な、それでいて硝子のような脆さと危うさのある表情でした。全体的に整った顔立ちですが、一際印象的なのはその目でした。一見すると透き通っているのですが、光の角度によっては翳りや澱みのような靄が滲んで見え、それが彼の神秘をより強めていました。
「落ちても大丈夫だよ、あんまり深くないし」
 澄んだ声でした。
「……何をしていたんですか?」
 彼はまた俯きました。
「桜を見ていたんだ」
「あなたは、ずっとそうやって下を見ていませんでしたか?」
 すると彼はふっと笑いました。
「見れば分かるよ」
 そう言って彼は川を指差しました。私はそれに従い、欄干から少し身を乗り出して、見下ろしました。
 水面に反射した桜が映り、そのゆらめきに自らの輪郭が翻弄されるのを委ねていました。また、陽光がきらきらと欠片を落とし、そこに散った桜が重なって、何とも言えない不思議な光景を作り出していました。
「こっちの方が綺麗でしょ?」
 彼は愛らしく、無邪気なしたり顔を浮かべました。
 この彼、というのが他でもないあなたでした。
「それにしたって、欄干に座るのはよくないと思いますよ」
「そうかな、でも、水面でゆらゆらしている桜を見ると、僕も一緒に揺れたくなるんだよね」
 そう言いながら、あなたはまた揺れ始めます。私はそれを手で制し、
「確かにこの川はあまり深くないですけど、死なないこともないでしょう」
 と言うと、あなたは
「死んでしまったのなら、それでもいいよ」
 と呟き、また笑いました。しかし、それは先程のような愛嬌のあるものではなく、どこか自虐を帯びていました。
「まあでも、どうせ死ぬなら―」
 あなたは、桜の花弁が水面に貼り付き、這うように流れていくのを目で追いました。やがて完全に後方を向き、
「この花びらの行く先で死にたい」
 目線を遠くへ投げました。
「ありきたりだけどさ、桜が一番綺麗なのは散り際だよね」

「あなたが死ぬ時は、私も一緒に死ぬよ」

 口をついてそんな言葉が出ました。今思い返しても、何故このようなことを言ったのか分かりません。あなたが本当に死んでしまう人に見えたからかもしれません。あるいは、ただ単純に、あなたに恋をしたからかもしれません。
 あなたは少し驚いたような顔をしてから、
「ありがとう」
 と風に乗せるように言いました。

 次の日も、私は橋に来ていました。あなたはいませんでした。落胆しつつも、橋の上へ行き、川を覗きました。桜が揺れていました。私は欄干に手を掛け、身を乗り出しました。その時でした。
「落ちちゃうよ」
 寧ろその声で私は落ちそうになりました。慌てて後ろへ身体を反らすと、今度は後方へ傾きすぎて、尻餅をつきました。あなたはカラコロと笑いました。私もつられて笑いました。
「立てる?」
 差し出された手の、陶器のような白さと冷たさを、私は今でも覚えています。
「会えると思ってた」
 あなたに真っ直ぐ見据えられ、私は顔が熱くなるのを感じました。
「私も」
 顔を背け、そう答えるのが精一杯でした。
「桜が全部散るまで僕は毎日ここに来るからさ、暇だったら君もおいでよ」
「全部散ったらどうするの?」
「散れば分かるよ」
 それから一週間、私たちは毎日会いました。段々と緑に変わっていく桜を見ながら、色々な話をしました。幾千もの花弁を見送りました。
 あなたから聞いた話の内、最も印象に残っているのはやはり、あなたの生い立ちでしょうか。
 僕は落ちこぼれだ、あなたは短い間にその言葉を繰り返し使いました。家族皆が医者や弁護士といった職業に就いていく所謂エリートの家系で、自分だけがそうではないのだと。小さい頃から何度も失敗をし、その度に親に罵られ、兄に馬鹿にされ、自分の居場所がなくなっていき、今となっては家族など最早同じ家に住む他人なのだと。あっけらかんとした口調が、却ってあなたの孤独や寂寥を浮き彫りにしていました。
 なんで生きてるのかな、あなたは二言目にはそう言っていました。

 あなたと出会ってから七日目、とうとう桜は全て散り、青々とした葉と入れ替わりました。あなたは変わらず欄干に腰掛けていました。しかしその日はいつもと違い、私を見つけるや否や欄干から飛び降りました。
「散っちゃったね、全部」
 私はそう言いました。
「そうだね」
 私たちの間に流れる沈黙は、寂しさに満ちていながらも、ずっと浸っていたい心地良さがありました。私たちは寂寞に酔いしれました。
「あのさ」
 先に口を開いたのはあなたの方でした。私は川へ目を遣りながら、何、と返しました。
「桜が全部散ったら、僕がどうするか分かるって言ったよね」
「うん」
「僕は今日、死ぬよ」
 えっ、と思わず声が漏れました。その反応を見て、あなたは、まあそうだよね、と笑いました。
「本当はね、君と初めて会った日に死ぬつもりだったんだ。首を吊ったり、飛び降りたりするのはどうも嫌でさ、入水自殺にしようかなって思った。で、ここに来てみたんだけど、思ったより浅くて。どうしようかな、って考えてたら、君に声を掛けられた」
 私は何も言えませんでした。あなたの口吻は淡々としていました。それでいて、口を挟む余地のない緊張感を孕んでいました。
「まあ、どうせなら桜が全部散るまで待ってようかなって。思いつきではあったんだけどね。でも、君に会うのは楽しみだったよ。これまで失敗ばっかで、居場所もなくて、家族も他人と同じになって、本当に生きる理由が分かんなかったけど、この一週間だけは、明確に君に会うために生きられたかな」
 自ずと涙が溢れました。
「君さ、一緒に死んでくれるって言ったよね。今更あれが本気だったかなんてどうでもいいよ。だって、本気だろうが嘘だろうが僕は嬉しかったから」
「本気だよ。私も、あなたと同じ。生きる理由なんて分からないんだから」
 あなたは苦笑していました。確かに、あなたと初めて会った時は、何故そのようなことを口走ったのか、本心だったのかその場凌ぎだったのか分かりませんでした。ですが、この瞬間ばかりは、本気で死んでもいいと思っていたと言い切れます。私とあなたは同じであることを信じていたと断言します。家庭環境や生い立ちは全く異なっていましたが、私も、生きる理由など分からず無気力に生きていたのです。この一週間だけは、私もあなたに会うために生きていたのです。だから、あなたが死ぬなら一緒に死んでいいと思えたのです。
「同じ、いいや、そんなわけないよ」
 この時、初めてあなたが苛立つのを見ました。
「僕は、家族を恨んじゃいない。罵られたり、嘲笑されたりしたけど、それは当たり前のことだ。それが人間だから。僕がちゃんとしていれば、親も、兄も、僕に良くしてくれたと思うよ。僕が心底、殺したいほどに嫌いなのは僕なんだ。僕と同じだと言うのなら、僕が僕を嫌いなように、君も、君自身を嫌ってないといけない。そんな筈があるもんか。君がこんなに自分自身を嫌いなわけがあるもんか」
 自分で自分を刺しているような痛々しさでした。
「僕はもう行くよ」
 あなたは背を向けました。
「ありがとう、楽しかったよ」
 一度は引っ込んだ涙がまた溢れてきました。あなたの輪郭がゆらめいて、暈けていきました。あなたはそのまま、私の歪んだ視界に馴染むように消えていきました。

 あなたは流れていった、今の私はそう思っています。花弁の行く先で死にたいと言っていたので、おそらく海で入水自殺したのでしょう。
 私はこの文章を書く意味はないと思っていましたが、ここまできてようやく、意味があることに気付きました。
 私はあなたに謝りたかった。
 私はあの時、あなたの背中を追い掛けて引き止めるべき、いや、引き止めねばならなかった。葉桜が枯れ落ち、蕾が膨らみ、また花が咲くまでを一緒に見届けようと言わなければならなかった。
 あなたは最期に、私と同じであることを強く否定しました。でもそれは、私とあなたが違っていたのは、生きていたからです。死ねば、同じでも違ってもいなくなります。
 あなたはまた、桜は散り際が一番綺麗だと言っていましたが、今の私はそうは思いません。
 人が終わっていくものに儚さや美しさを見出そうとするのは、終わっていくものをただ終わらせたくないというだけです。あるいは、自分が終わる時にただ終わるのが怖いので、他の何かが終わるのに美しさを発見しようとしているだけです。これは美徳でしょうか、いいえ、それは終わっていくものを見届ける人の自己満足に過ぎません。終わったものそれ自体にとっては、何の意味もないのですから。
 桜の散り際が美しいという人は、散った後の花弁を見ていないでしょう。地に落ち、雑沓に轢き捏ねられ、砂にすり潰され、泥塗れで引き千切られた花弁を見ずして、散り際を美しいというのは、欺瞞です。
 人もこれと同じです。あの時の私は、死にゆくあなたの偽りの美しさに目が眩んでいた。まず私が刮目すべきだったのは、あなたの亡骸です。あなたが死に至る経緯、死ぬ間際の言動、そんなことは差し置いて、あなたが死ねば肉塊に、そして骨になることを見なければならなかったのです。
 しかし、こんな御託を並べていても、あなたにとって何かがあるわけではありません。死んだのです。あなたは、死んだのです。
 あなたが死んでから今日に至るまでの十年が惰性であることを私は自負しています。自負していながらも生きていられたのは、生きる理由のないことを悟ったからです。
 もう一度言いましょう、生きることに理由などありません。強いて言うなら、暫く生きて振り返った時、ああ、あの時の自分はあんなことのために生きていたのか、とノスタルジーに浸るためだけにあるのです。いずれにしろ、それに縋って生きていけるほど丈夫なものではありません。
 こんな言葉をいくら重ねても、綺麗事にしかならないのは分かっています。私はあなたと心中しようとは思っても、自殺しようと思ったことはないのですから。分からない人間が何を行っても無駄です。それが過ぎたことに対してなら尚更です。
 ですが、もう少し綺麗事を並べさせて下さい。私がこんな風に考えるようになったのは、紛れもなくあなたが死んだからです。あなたの死を糧に、惰性で生きているのです。純然たる惰性です。しかし、私は生きているのです。
 あなたを糧にした私が死ぬ時、それはあなたと一緒に死ぬと同義でしょうか。

今年もまた、桜の咲く季節になりました。

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