仙台キリシタンに伝わる聖母像
昭和11年5月23日、仙台市において伊達忠宗300年祭が開催されたときのことである。ある青年が会場に現れて、先祖から伝わるという家宝の小さな象牙でできた聖母像を皆の前に出した。この青年の先祖は、かつて仙台キリシタンであったというが、伊達忠宗から迫害を受けて北海道に逃げ延びたという。
聖母像の足元には次のようにラテン語で書かれていた。
"Sub tuum praesidium confugimus, sancta Dei Genetrix; nostras deprecationes ne despicias in necessitatibus, sed a periculis cunctis libera nos semper, Virgo gloriosa et benedicta. (スブ・トゥウム・プレシディウム・・・私たちは、あなたの守護のもとに逃れます、神をお産みになった聖なる方よ。窮境において私たちの願いを軽んじることなく、あらゆる危険から私たちをいつも解放してください。栄光ある祝福されたおとめよ。)
その青年は、この聖母像について次のように語った。
「ある冬の日の夜のこと、弟たちが寝静まったとき、僕は祖父に部屋に来るように言われました。僕が部屋に行くと、祖父はローソクに火を灯して、僕を小さな机のそばに跪かせました。すると祖父は鍵のかけられた箱を開けて、その中にあったもう一つの小さな箱を取り出しました。祖父は黙ったまま私のそばににじり寄り、その箱を机の上に置きました。私はその不思議な様子を見て意外に思って祖父の顔をしげしげと眺めていると、祖父は少し口を開けて、何か短い祈りを唱えたようでした。それはあまりに瞬間的であったのと、低い声だったので何を唱えているのか分かりませんでした。その目は不思議に輝いていたことだけは覚えております。私はその場の雰囲気に圧倒されて何もたずねることができずにいると、祖父はさらに近づいてきて、私の耳元で次のように囁いたのでした。
『お前はこの家の跡取りとして、この家の秘密を知るべき年頃になった。お前の父は家の秘密を知らないままに早死にした。わしも近いうちに死ぬかもしれないから、この家の秘密を守る者を決めねばならぬ、と思うのだ。ようく聞いておきなさい。お前は、先祖代々わが家に伝わるこの家宝を大切に守らなければならない。忠実にこれを守り続けたら幸福になるだろうが、もし失くしたりするときっと不幸になるだろう。大切にしなければならぬぞ』。
祖父はそう言って小さな箱を開け、聖母像を取り出して、恭しくこれに合掌しました。私は初めてその像を見ました。ときに15歳でした。まだ祈ることさえ知らなかった私は自然に手を合わせて、このマリア像を拝みました。しばらくの間沈黙があった後、祖父は語り始めました。
『これはビルゼン(virgem=処女)、サンタ(聖)マリアというものだ。わしは11歳のとき、このマリア像に命を助けられた。その頃、わしの父は亡くなっていて、わしと二人の妹とは、おじいさんの家に預けられていた。わしは11歳のとき病気がたいそう悪化し、医者にも匙をなげられていた。今も良く覚えているのだが、おじいさんは、わしの傍らにいた妹二人と付添い人を外に出してから、わしを抱え起こして晴れ着を着せ、今、ここにある箱の前に座らせた。そして箱の中から像を取り出して、これを壁にしつらえた台の上に置くと、わしの腕を取って、マリア像に目を据えながら祈った。” ビルゼン(処女)、サンタ(聖)、マリアさま、危険なとき私どもはいつもあなたを守り続けました。御身は今わたしの苦しみをご存知あそばすゆえに、この子を救いたまえ。わが家系の希望・繁栄はこの子の将来にかかっております。もしこの家に死が必要ならば、わたしの命をこの子の代わりにささげ奉る”。おじいさんはそれからも黙ったまま熱心に祈り続けていた。
わしはいつの間にか眠ってしまった。翌朝目覚めると、陽はすでに高くなっていた。そしておじいさんは冷たくなっていた。わしの命は明らかにビルゼン・サンタ・マリアさまによって助けられたのであった。その代わりおじいさんは、身代わりとなって死んだのだ。その時からこの像に秘められた偉大な力の前に、わしはすっかり心を打たれ、その前を通るたびに心からの尊敬を払うようになった。しかしこの像については誰にも話したことは無い。これがこの家の秘密なのだ・・・・・』と」。
この青年の先祖は、17世紀初頭に受洗した仙台キリシタンであると思われる。迫害で隠れキリシタンになっても、聖母マリアに対する信仰だけは代々守り通し、聖母マリアを通して多くのお恵みを受けていたのであった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?