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秋田の聖母マリアの取次による奇跡―脳腫瘍が完治

秋田の聖体奉仕会における「聖母像からの血と涙」の出来事については、別の記事で詳細に記したが、秋田の聖母マリアの取次ぎにより、脳腫瘍が奇跡的に治癒した事例が韓国であった。

今からちょうど約40年前の1983年10月15日、韓国から巡礼団が奉仕会を訪れた。呉基先神父が引率するこの巡礼団の中には、脳腫瘍から奇跡的治癒の恵みを受けた、カトリック教徒テレジア千善玉(46歳)とその姉がいた。

1981年7月3日、テレジア千善玉は、ソウルの某大学医学部医師から脳腫瘍との診断を受けたが、すでに手遅れの状態にあるため回復の見込みは全く無いと宣告された。

彼女は洗礼を受けてからまだ日も浅く(1981年4月11日に受洗)、秋田のマリア像に関する出来事についても全く知らなかった。彼女の姉が「これから鍼灸の治療を受けた方がよい」と勧めたところ、「私はいや。イエス様が治してくれる」と叫ぶと気を失い、こん睡状態に陥ってしまった。姉は、妹の子供に返ったかのような叫びを聞いて、奇異に感ずると共に、強い印象を受けたという。

テレジア千と姉および代母は、ソウルのレジオ・マリエ(Legio Mariae:韓国はレジオマリエの会員数が世界で最も多い国の一つである)の会員であったが、ある時、秋田の涙を流す聖母像の写真が会から送付されてきた。この写真をレジオマリエの会員に配布したのは、前出の呉基千神父であった。

呉基千神父は、1979年5月26日に初めて秋田の聖体奉仕会を訪れたが、そのとき図らずも聖母像の涙を目撃する恵みを得た。それは40分ほどの短い時間であったが、極めて強い衝撃を受け、聖母との出会いの意義を感じた。そこで彼は涙を流す聖母像の写真を多数韓国に持ち帰り、ソウルのレジオマリエの会員その他、聖母信心の厚い人々に配布したのであった。こうしてテレジア千の姉と代母は、今や植物人間となってしまった彼女のために、秋田の聖母マリアの助けを乞うことに最後の望みをかけることになった訳である。

ちょうどその頃、韓国のカトリック教会(*2)では、103名の殉教者(*3)に対する列聖運動(*4)が盛んに行われていた。新たに列聖されるためには、聖徳の超自然的証左である奇跡が必要なので、至るところで不治の病の奇跡的治癒が待望されていた。テレジア千の姉たちは、秋田の落涙する聖母像の写真を飾って、祈ることにした。韓国に聖人ができるためにも、103名の殉教者の功徳によって奇跡的治癒の恵みが与えられるようにと、秋田の聖母マリアの取次ぎを願って、神に切なる祈りを捧げたのであった。その日から知り合いや友人を通じてあらゆる方面に呼びかけ、熱心に祈るグループが形成された。特に身近な人々は断食をして、病人を囲んで祈ること40日間に及んだ。果たして、テレジア千は、半年の間に三回も秋田の聖母マリアの出現に接した。

一回目は、1981年8月4日、午前3時、昏睡状態のうちにテレジアに聖母のお姿が現れたという。回復後のテレジアの話によれば、金色の衣をまとって現れた聖母は、胸に一匹の子羊を抱いておられ、寝ているテレジアの額に息を三回吹きかけられた。その息吹は鋭く熱く強烈なもので、聖母の胸に横たわる子羊の毛が激しくなびき、ふわふわと震えるのが見えたほどであったという。その時付き添っていた姉の証言に寄れば、病人が昏睡状態の中で「羊!羊!羊!」と叫ぶのを聞いたが、何を意味するのか全く分からなかった。後日回復したテレジアに尋ねたところ、現れた聖母が羊を抱いていたことが分かり、納得したという。病人はこの言葉を残して再び昏睡状態に陥った。

上記の聖母の息吹は聖霊を意味しており、子羊はご聖体のイエスのシンボルであると考えれば、これは聖母が御子イエスを通じて癒しの奇跡を行われたことを示しているという。病人は依然として昏睡状態にあったが、この時、彼女は癒された、と考えられるという。

二回目の出現は、1981年8月15日、午前5時であった。聖母は前と同じように金色の衣を着ておられたが、胸に子羊の姿はなかったという。聖母は、「朝の祈りを一緒に唱えましょう」と言われ、次に「テレジアよ、起きなさい」と命じられたという。その時病人は目を覚ました。直ぐ起きようとしたが起きられず、そばにいた姉が背中に手を当てて起こし、やっと起き上がった。それからも姉の手を借りなければ歩くことはできなかった。

二回目の時には、子羊を抱かないで出現されたのは、すでに癒されている病人を目覚めさせるためであったからであるという。聖母ははじめて言葉を用いて、一緒に朝の祈りを唱えることをすすめ、起きなさいと命じられた。つまりもう治っているのだから、お祈りして、起き出すように、と促されたのである。

三回目の出現は、聖パウロ会病院のレントゲン室においてであった。1981年12月9日、テレジア千の脳腫瘍が完全に治ったかどうかを調べる断層写真を撮るために横たわっているときに起こった。今度の場合は今までとは全く変わって、輝くような純白の衣を着ておられたという。そしてにこやかに微笑みつつ彼女を眺め、そのままお姿は天に昇って行かれたという。この時の断層写真では、完全に脳腫瘍は消失して、健全そのものの脳の状態を示していた。ここにテレジアが完全に治癒したことの科学的証明が得られたのであった。

その奇跡の結果、1983年3月から4月にかけて、ソウルのカトリック教会では、103人の福者を聖人の位にあげるための委員会が組織された。そして秋田の聖母マリアによって起こった奇跡を認め、カルジナル(教皇)をはじめ、この委員会の名の下にローマに申請書を送り、それはバチカン当局に受理されたのである。

テレジアが回復した時、「ルルドの聖母」と「秋田の聖母」の写真を並べて、あなたに現れたのはどちらのマリア様であったか、と質問した。テレジアは即座に「この秋田のマリア様です」と指し示したと言う。このことによって秋田の聖母の出現と判明したのである。

*1: 「取次ぎ」とは、「マリア(聖母)崇敬(devotion to Mary)」に含まれる概念であり、「イエスキリストの母マリアを仲介者として神(三位一体の神=父なる神と御子イエス・キリストと聖霊のこと)への執り成しを願う宗教概念である。教父時代(2~8世紀)の終わり頃から聖母マリアを「仲介者」と呼ぶようになった。この「仲介者」という敬称には、弁護者、扶助者、援助者の三つの意味がある。聖母マリアの「仲介者」という役割は、パウロの司牧書簡「テモテへの手紙2章5-6」にある「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も人であるイエス・キリストただおひとりなのです」と齟齬をきたすものではなく、またキリストの仲介の力を弱めるものではなく、かえって強めるものであるとされる。ガリラヤのカナの宴席で、キリストの最初の奇跡が行われたのは、憐れみの情に動かされた聖母マリアの執り成しによるものであった(ヨハネ福音書2章1-11)。総じて、この概念はカトリック教会の歴史並びに信者の信仰・信心形態の現実を反映した結果、形成された概念であると思われる。

*2: 現代の韓国は、キリスト教信者が国民の約30%を占め、仏教信者よりも多いが、キリスト教の本格的布教は、19世紀にパリ外国宣教会により行われた。しかし当時、李氏朝鮮では儒教が支配的で、カトリックは邪教と見なされて激しい弾圧が加えられた。大院君政権下の1866年にはフランス人司祭9名とカトリック信者約8000名が捕縛、処刑される事件が起こっている。カトリック信者は拷問を受けながらもその信仰を守り、現在、韓国のカトリック信者の割合は総人口の約1割に達している(2005年公式資料)。

*3: 朝鮮最初のカトリック司祭となっていた金大建は、1846年に捕縛され、彼を含む103名の信者は「キリスト教棄教」を拒否、処刑され、殉教した(時に26歳)。金大建司祭を含む103人の信徒は、1857年に教皇庁によって尊者とされ、1925年に列福、さらに1984年5月6日にヨハネ・パウロ2世が訪韓した際、列聖され、聖人となった。

*4: カトリック教会では、生前、その生き方において、徳と聖性を示していたと思われる人に関しては死後、列聖申請が行われることによって列福・列聖調査が始められることがある(列聖調査に至る前に、「神の僕(しもべ)」、「尊者」、「福者」の各調査段階がある)。調査では、まず地域司教の管轄下で調査が行われ、聖人にふさわしいと判断されると初めてローマ教皇庁の列聖省での調査が開始される。列聖調査においては、殉教者の場合には、その人物の取次ぎによる奇跡(超自然的現象)が、一度必要となる。通常は早くても本人の死後数十年、場合によっては数百年という長い年月をかけて調査は行われる(ただし教皇聖ヨハネパウロ2世(没後9年)、マザーテレサ(同19年)など、死後わずか十数年で聖人となったケースもある)。日本人の聖人は、長崎で殉教した日本26聖人のうち20人を始め、多数いる。

出典:安田貞治著「秋田の聖母マリア」、P.334~

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