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#創作大賞2024 #エッセイ部門

#創作大賞2024 #エッセイ部門
ひふみ哲学123
身の丈の暮らしから奇跡を起こす

 幸せになるにはどうしたらよいかを自分なりに研究してきました。16歳で幸せになるための勉強を始めてから34年。願い、前進し、受け取る。この3つのステップ、ひふみ哲学と名付けてみました。身の丈の自分、等身大の自分から前進し奇跡のような出会いや出来事をたくさん引き寄せてきました。最近も普段絶対お目にかかることのできない方にお会いすることができました。気が付くと夢が後ろにあります。いつの間にか夢が叶っている。
願い、前進し、受け取る。この3ステップです。だからこそ叶えたいことがあります。政治を変えることなんです。

奇跡を引き寄せるひふみ哲学で政治を変えることをここに宣言します!

 今、もしかしたら政治家に近い場所にいる。政治家になるよりは政治家に物申したいそんなスタンス。
 私の叔母は政治家の娘。事情があって私の祖父と祖母は養子に迎えました。一つ屋根の下で暮らす幼少期、大人の事情に振り回されてしまいました。右見ても左見ても大人の事情な街、京都と比べられたくらい織物で栄えた街、群馬県桐生の大人の世界。物分かりの良い子供たちがたくさんいます。子供らしくいられない幼少期、大人子供。大人たちのことを理解してあげました。とうとう14歳になって一生結婚しない、子供持たないという結論にたどり着きおひとり様人生まっしぐらな50歳になりました。
 叔母は何かあるとこういいました。
「お前は親がいるからいい私は親に捨てられた」小学生の自分はこう思いました。政治家は何をしてもいいのか?政治家はよそに女作って子供を捨ててもいいのか?。悲しい日本の物語の一遍です。そんな環境でしたがいつも未来を描いて前進していく保育園生でした。
 小学生になると母が大病になってしまいました。当時は珍しいストレスから発症する病で入退院をくりかえしていました。小学2年から母親がいない暮らしが始まりました。もうその頃には料理を始めていました。掃除、洗濯、料理、買い出し、小学2,3年生が一人でスーパーに行くと大人たちが
珍しそうに自分のことを見ていた記憶があります。近所にあったコープで
一人買い物をしていると、大人たちがきっと声をかけてくれたような気がします。親以外の大人たちの優しさを知ることができました。
 祖母はお味噌汁を作ることが苦手で自分が毎日お味噌汁を作っていました。玄関掃除も毎日していたような気がします。忙しい小学生で毎日のことは料理を作ることなので料理の本をよく読んでいました。夏休みになると家業の仕事を手伝いに来ていた伯父のお昼も作っていました。家に帰ってきた母は歩くとふらついてしまったり家事ができませんでした。だからほとんど料理を作っていたんです。調理師になろうと思ったりしました。
 小学4年生くらいの頃、群馬県にFM局が開局しました。エフエム群馬。
毎週土曜日になるとアメリカントップ40の番組を聞くことができました。
英語放送か日本語放送か覚えていないのですがアメリカの最新の曲を聞くことができました。ホイットニーヒューストンやマドンナ、マイケルジャクソン、現実は辛いことばかりの小学時代を乗り越えたのは洋楽でした。
 最近は自治体でも対応策を考えているヤングケアラーな小学生時代でした。親の介護や弟妹の面倒、祖父母の介護、家のことを任されてしまうヤングケアラー。個人的なことなのでなかなか支援策があっても難しいのが現状。言えることは暖かく見守ることが大切なんだと思います。自分はコープの方が声かけてくれたり、友人のおかげで辛い時代を乗り越えてゆくことができました。
 小学4年生くらいの運動会の時、お弁当を自分でつくりました。忙しくて具のない焼きそばしか作れなくて恥ずかしかったけど、す焼きそばをお弁当箱に入れて学校に持ってゆきました。ゆかちゃんという心友が言ってくれました。「ちか偉いよ」泣きそうになりました。その一言で救われました。
母親がいなくて辛かったけど友人たちの一言で元気になれました。
 母親が小学5年生くらいのとき大病を克服して家に帰ってきました。一時は母親の死を考えなくてはならないくらい重症だったのです。大学病院で手術をして生き返ってきました。帰ってきてもまだ歩く時はふらついてしまうしなかなか家のことはできませんでした。自分もできる限り家事を手伝っていました。母が帰ってきて安心したのか今度は祖母が認知症になってしまいました。同じことを何度も繰り返し話したり、食べたものを忘れてしまったり、物がない騒ぎをしたり、台ふきで食器を拭いてしまったりと認知症の初期段階になってしまいました。認知症の祖母の相手をするのは自分でした。受験勉強も難しかったです。小学生の自分を演じなくてはならないのです。記憶は小学生のままでした。
 高校生になって地元で一番の進学校に入りました。でも思ったんです。
自分は幸せになりたい。幸せになるための勉強をしたい。そこで高校1年生の2学期までに自分と約束しました。自分は幸せになりたい、幸せになるための勉強をする。英会話を話せるようになりたいそんな思いで、受験勉強を辞めました。幸せ軸を作ったんです。中学時代からアメリカの哲学の本を読んでいて幸せになるための勉強をしていました。
そして身の丈の学校を見つけ出しました。運命を変えるくらいの学園に出会うことができました。 ひふみ哲学123 この哲学にたどり着くまで様々な経験をしてきました。3つのステップなんです。願い、前進し、受け取る。幸せになりたいと思って幸せになるための勉強をし幸せな人が多くいる学園にたどりついたんです。無理することなく日々の暮らしを前進してゆくとふさわしい未来にたどり着きます。
 ヤングケアラーだった小学時代に未来を描きました。将来はアメリカに行くそして英語がぺらぺらになっている。10歳から始めた勉強は11年後に
夢の国にたどり着くことができました。ヤングケアラーで母親の介護と認知症の祖母の介護で大変でしたがご褒美のように夢が近づいてきました。でも
大学に入って焦りました。周りは海外経験の多い人ばかりだったのです。帰国子女もいたりして焦りました。そこで前進しました。毎朝6:45にラジオ英会話を始めました。毎日たくさん英語の時間を作りました。英語漬け。
空いてる時間は映画を見たり英語の曲を聞いていました。そのかいあって
3年間集中して前進していたら受け取りました。願い、前進し、受け取る。
アメリカのコネティカット州に3週間ホームステイし1週間東海岸を旅行するというアメリカ語学研修に行くことができたのです。単位を取るために学年全員行かなければなりませんでした。
一か月間は夢の日々。群馬の海外には縁のない土地から東京に出てアメリカに。3年間集中して勉強していたらほとんど話せるようになりました。そしてアメリカの高校生にウケるような話もできるようになりました。10歳の少女の夢が11年後に叶った時でした。それだけではありませんでした。奇跡的な出会いがありました。
 東村山のアパートにいた頃、NHKのドキュメンタリーを見ていました。
ニューヨークの街を着物を着て歩く女性。新橋の元売れっ子芸者でオペラの衣装コンサルタントでプリンストン大学、コロンビア大学で日本文化を教えていた日本文化を代表する方で、時の総理大臣に電話が出来るような政府要人やVIP、チャーリー・チャップリンをおもてなししたことのある中村喜春さん。波乱万丈の人生を歩んでいる彼女の生き方に感動して大泣きしました。いつかニューヨークに行って中村さんに会う、心に強く思いました。必ず会いに行くと。
 語学研修はニューヨークにも滞在しました。マンハッタンには人口800万人です。その一人の女性に会える確率。メトロポリタン美術館に行ったときに目を疑いました。目の前に着物を着ている女性がいました。ウソでしょ?ウソでしょ?そんな感じです。恐る恐る近づいて声をかけてみました。「失礼ですけど中村喜春さんでいらっしゃいますか?」
「そうよ」
そうなんです、東村山のアパートで大泣きして会いたいと思っていた女性に会えてしまったのです。生まれて初めて飛行機に乗って海外に、初めてのニューヨークで会えてしまいました。奇跡の出会いです!
10歳からの自分のことを思い出しました。辛い思いして10代を過ごしてきたけど全てが報われた瞬間でした。奇跡が起こりました。自由の女神がほほ笑みました。アメリカという国は自分を信じ努力したら自由の女神がほほ笑むことを知りました。感動的な出会いに感謝しました。そしてマンハッタンに誓いました。「I will be back again NY」
また戻ってくると誓いました。まだ実現していませんが次に行く時はこのお話をたくさんの人の前でスピーチしている気がします。ニューヨーカーが
好むかもしれないとちょっと思っています。
 ひふみ哲学123 願い、前進し、受け取る。
ニューヨークでのことは10歳の頃の願いを叶えたことになります。どこかの国へ行く時に10年かけてその国の言葉や文化を学んで渡航すると感動的な場面がたくさんあるかと思います。年月をかけてたどり着いた場所で話もできるようになっているからたくさんの人と話すことが出来るのです。自分は英語を話せるようになるために受験勉強を辞めました。なぜなら幸せになりたかったからです。幸せになるための勉強を続けてきているのです。高校1年で幸せ軸を作って勉強しています。学歴はありませんが学習歴はありますと堂々と言うことができます。そのおかげで人と違う人生をあゆんでいます。願い、前進し、受け取る。
 ニューヨークで奇跡の出会いを果たしました。ところがニューヨークは甘くなかった。2泊3日の滞在で、奇跡と悲劇を経験しました。その後20年位立ち直ることが出来ないくらいの衝撃を受けました。
 帰国してから自分の能力を超えてしまって英語を話していたので日本語が出てこなくなりました。電車にも乗れなくて挨拶とかもうまくできなくなるくらい言語障害になってしまいました。帰国して間もなく初めて精神科の
ドクターに見てもらいました。その時、不思議なことを言われました。
「君の病気は政治家がなる病気だ」えっ?
小学生の卒業アルバムには国会議員になりそうなクラスメイト第2位になっている自分ですがアメリカから帰国していきなり言われた言葉にビックリしました。
 帰国してから燃え尽きてしまいました。願い、前進し、受け取りました。
ひふみ哲学123でした。でも日常会話の日本語が出てこないくらいになっていました。そんなころ大学の友人のおかげで出会えたアーティストがアルバムをリリースしました。そのアルバムの中に歌ってみたい曲がありました。
 小学生の頃の夢は人前で歌ったりすることも描いていました。そして奇跡が起こりました。世界的に知られていて現在も音楽プロデューサーとして活躍している現在の音楽の師匠にデモテープを渡しました。自分は当時、今も自信はありませんが、全く自分に自信がなかったのです。ただ度胸だけありました。東村山のアパートの近くにスタジオがありました。来ている人たちはバンドマンばかりです。その中を一人スタジオに入ってアカペラでデモテープを作りました。マライアキャリーのようにデモテープを渡すことができました。世界的に活躍しているアーティストが聞いてくれるなんてないと思っていました。ところが聞いてくださってこう話すのです。「可能性がある」???
意味が分かりません。そこで久保田利伸さんの事務所の方に相談しました。
私のいきさつを聞いてビックリされてました。チャンスて自分にある程度自信がないと掴めないのです。ひふみ哲学123 願い、前進し、受け取る。
準備が出来たときに初めてチャンスをつかむことが出来るのです。レコード会社の人の前で自ら白紙にしてしまいました。その当時少しでも自信があったらもしかしたらデビューしていたかもしれません。願い、前進し、受け取ることが出来ない大きなチャンスでした。
 もう一つ大きなチャンスを逃してしまったことがあります。
私の母方の祖父は仕立て屋でした。北関東に顧客を持つテーラーをしていました。日本と中国の戦争で足を負傷し片足でミシンを踏んでスーツを作っていました。子供の頃から服に囲まれて遊んでいました。伯母もオーダーメイドの店をしていました。母校の大学が服飾の専門でした。服飾の東大と呼ばれていた専門学校の系列の大学の英語の学部に入りましたが、洋服に縁がありました。上京して間もなくアパレル会社から声がかかって学生バイトとしてアパレルショップで働いていました。全国展開している名古屋本社の国分寺支店。その当時の店長は現在、母校の講師となりまして指示を受けています。運命のめぐりあわせのアルバイトでした。その会社は流行が早く、
パリコレクション、ミラノコレクション、ニューヨークコレクション、ロンドンコレクション等をチェックしていないと仕事が出来ませんでした。母校のスタイリストのテキストを取り寄せて勉強していました。ある日、学校の友人がテキストをみつけました。親戚が映画のメイキャップアーティストなんです。自分のことを話したみたいで、スタイリストのアシスタントを探していると友人から言われました。台本を読んで時代背景をくんでスタイリングをするというお話でした。
「撮影現場に来ない?」と言われたんです。でもやっぱり自信がないんです。もし撮影現場に行ったら意思があると思われて大学を辞めなくてはならないかもしれないと思ってしまいました。両親が1メーター仕上げて5円の織物の仕事をしていました。労働で学費を捻出しているからこそ大学を辞めるわけにはいかないと思いました。芸能人にお会いしたいけど自信のなさと不安で撮影現場には行かなかったのです。中途半端な気持ちではいけないと思い断念しました。このことも大きなチャンスだったと思っています。
 ひふみ哲学123 身の丈の暮らしから奇跡を起こす
奇跡を起こしてきました。無理はしていません。楽しく努力してきたかもしれません。身の丈で出来る限りのことをする。少欲知足 足るを知るは富むことなり。与えられた環境に満足してゆくこと。なかなかできないことです。でも与えられた環境で出来る限り前進してゆくといずれ受け取る時が来るのです。
 もう一つの奇跡をお話しします。家業は群馬県桐生市ならではの織物業です。西の西陣東の桐生と言われて京都と比べるくらいの織物文化があった街で神社のお守りの生地を加工する仕事を家族でしていました。東京から帰ってきて家の手伝いをしていました。毎日有名神社の安産祈願のお守りの生地を束ねていました。地方にいるので親戚の代わりに先祖供養も任されていました。仏壇のお花は今でも自分が買いにゆきます。家のことを地味に続けてきました。小学生の頃から料理をしていたので料理が得意になっています。ヤングケアラーの子供たちにも将来役にたつよとエールを送りたい。
 親戚の子供が黒豆が好きで毎年お正月になるとおせち料理を作っていました成人するまで作っていたので約17年間黒豆と栗きんとんは毎年作っていました。おせち料理は一年の集大成みたいなもので無理なく作ることが出来ました。ヤングケアラー時代のおかげです。家のことを続けてきたからこそ奇跡が起こりました。
 父の兄は高校を出てすぐに東京に向かいました。内職から初めて一代で会社を作りました。千葉に自動車部品工場を作りました。伯父が突然、故郷に帰りたくなったようです。桐生に来ると部屋が狭いので泊まると大変だったのです。そこで、急に家を作ると言い始めました。不動産屋さんを探して土地を探しました。住宅展示場に行って家を見て回りました。なぜか自分に決定権を持たせてくれました。家が完成しました。引っ越してくるものだと思っていました。ところが故郷にいる時間より首都圏にいる時間の方が多くなっているから帰りずらいということになりました。家一軒誰も住まないことに。自分が風を通しに行ったりしていました。長男として祖母の面倒を見られなく三男の父と家族でみていたからもしかしたらお礼として家を作ってくれたのかもしれません。真相はわかりませんが、伯父はさりげないところがあるのでもしかしたら私たちに家をプレゼントしてくれたのかも知れません。家族旅行もほとんど経験なく25歳まで祖母の在宅介護は続きました。最後は家で見取りました。そのお礼として家を作ってくれたのかもしれません。身の丈で家のことを地味に続けていたら家をプレゼントされました。
願い、前進し、受け取る。30代になって家が欲しいと思っていてスケッチブックに絵を描いていました。間取りも書いていました。それから3年後に家ができあがりました。何かを叶えたいときはビジュアル化するものです。
思いを込めてゆくことが大切なんです。絵を描いていたら形になったのです。
 願い、前進し、受け取る。この3ステップで奇跡みたいなことを引き寄せています。引き寄せは強く、有名人も引き寄せています。意識しているだけで会えてしまうのです。今までお会いしたい女優さんを近くで拝見したことがありました。意識していたんです。そしたら会えたのです。他にも働いていた場所でオスカープロモーションの看板女優さんにも会えたことがありました。偶然のめぐり合わせです。
 今、自分は政治家に近いところにいます。実は現在、赤松政経塾の塾生なんです。細川護熙内閣の文部大臣であり男女雇用機会均等法に尽力された
赤松良子先生主催する政経塾の塾生です。政治家になるよりは政治家を説得できるにはどうしたら良いかを考えて活動してます。赤松政経塾の講師であります日経新聞コメンテイターで世界的に活躍するジャーナリストの方が登壇された時に質問しました。どうしたら政治家を説得できるか?「選挙に出て勝つこと」「活動をすること」二つの答えをだしてくださいました。選挙に出て勝つことは現実的ではありません。なので活動することにしました。SNSで発信するようになったのです。もしかしたらテレビ局のスタイリストさんたちがSNSを見ている気配があります。
 2019年に悲しいニュースを見ました。官僚のお父さんが息子さんに手をかけてしまう事件です。引きこもりがちの息子さんが暴力をふるってしまう。見かねて手をかけてしまった。この事件は氷山の一角と言われています。引きこもり100万人。自分も引きこもりがちの時期があったので他人ごとではありません。8050問題。80歳の親の年金で暮らす50代。
就職氷河期の50代の人は少なくないのです。社会に出ることが出来なかった男の子たちがいるのです。国はバブル弾けて対処療法で対応しました
。一番人口が多い人たちが大変な思いをしているのです。少子化対策も15年早かったら良かったのにと思います。様々な問題課題が山積しています。だからこそどこから始めてゆけばいいのかを考えました。文部科学省からだ!当時の文部科学大臣は萩生田光一さん。どうしたら
萩生田光一文部科学大臣に会えるか考えました。そうだ!オリンピックの開会式で歌えばいいんだと思いました。今もお会いできる音楽プロデューサーたちに話に行ったのです。文部科学大臣に会うためにオリンピックの開会式で歌いたい!まじめに当時は思いました。インターFMのイベントにご挨拶に行きながらオリンピックの開会式で歌いたいと皆さんに話していたら、
「椎名林檎さん差し置いて歌うのかい?」と笑われてしまいました。
まじめに受け止めてくれる人もいました。一人の音楽プロデューサーは
「面白い」と言ってくださいました。そして2020年になってそのプロデューサーの誕生日にご挨拶に行きました。その方はクラブ業界を作った第一人者です。渋谷にお店があって20数年ぶりに一人向かいました。看板の写真を撮っているとアフロヘアの方が近くに来てほほ笑んでくれました。ミュージシャンかな?とその時思いました。先にお店に入るとざわついています。周囲に聞くと「ホセ・ジェイムズが来るよ」というのです。しばらくして先ほど微笑みあったミュージシャンがきました。なんと、微笑みあった方が世界的に活躍するアーティストのホセ・ジェイムズでした。文部科学大臣に会うためにオリンピックの開会式でまじめに歌おうとしていたら世界的に活躍するミュージシャンに会えたのでした。強い引き寄せでした。
 政治家に近いところに今います。音楽業界から政治家を説得することを考えました。どうしたら政治家を説得できるのかをよく考えました。そしてこう思いました。桐生の政治家の行いによって叔母は養子になりました。桐生には悲しいお話がたくさんあります。それでもうまくゆくようにみんなが協力しあっている良い町でもあります。だからこそ地元が喜ぶことをしようと思いました。桐生は平安時代に京都御所から白滝姫様が桐生の農村に嫁いできて宮中の文化を先人たちに伝えて現代に繋がっています。世界の一流品は王族の元に集まります。桐生は宮中に近いから現在も献上している企業が少なくありません。一流品を作ってきたからこそ世界中のブランドの生地を桐生で作っている。もっと桐生を知ってもらうために愛子様や佳子様たちの日常のドレスを作ろう!そう思ってブランドを立ち上げることにしました。
Kiryu Royal Crestというブランドです。ブランドを通した街づくりをしようとしてます。現在、桐生王国会議という会議を開いて街づくりのお話をしています。地元の市議会議員たちやこれから立候補しようとしている方々を集めて会議を開いています。ブランドを通して政治家に働きかけてゆこうとしてます。
 願い、前進し、受け取る。ひふみ哲学123は続いています。政治家は何してもいいんだと思った小学生の自分が今は政治家を集めて会議を開いています。前進しています。
 今年、2月に赤松政経塾の赤松良子先生がお亡くなりになりました。偲ぶ会が5月に高輪で執り行われました。その時奇跡的な出会いがありました。
なんと皇族の方がお出迎えしてくださいました。皇族のドレスを作ろうとしていたら皇族を引き寄せました!ひふみ哲学がまた一つ奇跡をおこしました。赤松良子先生が会わせてくださったのでしょう。
 ひふみ哲学123 願い、前進し、受け取るこの3つのステップによって
たくさんのことを叶えてきました。今現在続けていることがあります。千里の道も一歩より。ストレッチと腹筋。ストレッチは6年、腹筋は5年ほぼ毎日続いています。ストレッチを始めて2年後にホセ・ジェイムズに会えました。ストレッチと腹筋3年目には参議院議員会館に呼ばれテレビ局のカメラの前にいました。(少し映っていました)ストレッチと腹筋を毎日続けるだけで日常に変化が訪れました。これからもひふみ哲学は続いてゆきます。政治家を説得するにはどうしたら良いか?このテーマで生きています。よりよい社会になるためにどうすればよいかを考えています。そして日本をしっかり守りたい。皆が笑顔で豊かに暮らせるようにしたいのです。身の丈の暮らしから奇跡を起こしています。3つのステップ、願い、前進し、受け取るこのひふみ哲学で願いを叶えることができます。この哲学で幸せになる人が増えてほしいことを願います!123

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