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小さなビビリ屋さんは、私の指を優しくはむ。
一歳半になる愛犬が停留睾丸(ていりゅうこうがん)のため、手術をすることになりました。
停留睾丸とは、下りてくるはずの精巣がお腹の中に留まってしまっている、という症状。
まれに両方の場合もあるそうですが、愛犬の場合は片方でした。
そのまま放っておくと、お腹の中で腫瘍になってしまうことが多いそうです。
できればお腹を開けたりしたくない。
タイムリミットはだいたい1歳半といいます。
ギリギリまで様子をみよう。もしかしたら目覚めて下りてくるかも。
そう思った私は愛犬のその、なんというかダイレクトにいうのはとても恥ずかしのですが、思い切っていうと片方の精巣さんに声をかけることにしました。
「こっちだよ~」
「もう出てきていいよ~」
「おいでよ~」
あるときは寝転んだ姿で愛犬の股間をのぞくようにして。
あるときは両手を合わせ祈りの姿勢でヒソヒソと。
あるときは深く目を閉じ、念仏のようにむにゃむにゃと。
しかし残念なことにその方からはポチリとも応答がありません。
そしてとうとう9月に入り、タイムリミットの一歳半になったところで去勢手術をお願いすることになったのです。
一般の去勢手術と開腹手術。
ビビリ屋の愛犬が一世一代の試練を迎えることになりました。
チワワは警戒心が強いといいますが、我が愛犬は警戒心というよりかなりのビビリ屋さん。
撃退するためにワンワン吠える相手は、
新しく買ったドライヤー。
自転車の銀色のカバー。
五段重ねになったままのテッシュの箱。
風にふくらむカーテン。
たこ焼きが入っている買い物袋。
愛犬にとってオ~バ~ケ~に見えるらしいものは上げたらきりがありません。
さて、手術は一泊の入院になります。
うちのビビリ屋さんは大丈夫でしょうか?
他の犬や猫の匂い、その声を聞いてナーバスにならないかな?
知らない人が目の前を出入りするのを見て、震え上がらないかな?
手術のこと、全身麻酔のこと、それよりも愛犬の繊細なメンタルが私はソワソワソワと心配でした。
そしてとうとう来てしまった手術当日。
愛犬は手術のため朝ゴハンを食べることができません。
今日はゴハンがもらえないとわかった愛犬は、何かを察したようにハウスに入りじっとこちらを見つめます。
予想外の彼の行動に私は動揺しました。
きっとゴハンをちょうだいと騒ぎ立てると思っていたのに!
そして、いつもと少し様子が違うだけで、動物的なカンが働いてしまう愛犬が畏怖する未知の小動物に見えました。
( なにかあるね?)
愛犬に問われるように見つめられ、私はどきまぎし、築き上げた二人の絆が壊れませんようにと目を閉じました。
動物病院に着き検温すると、愛犬は震えのためか熱が少し高いといわれます。
しかし、手術の時間には落ち着いたようで、予定通り去勢手術と停留睾丸の摘出手術は行われました。
*****
「朝ゴハン、食べなかったんですよぉ」
申し訳なさそうに受付にいた女性はそういうと、愛犬を連れに奥に入っていきました。
看護師さんに赤ちゃんのように抱っこされてきた愛犬は、お腹と股間に青い糸が結ばれているのが丸見えです。お腹の傷は3センチほどあるように見えました。
それを見た私の胃がキュッっと眉をひそめます。
体重3.5キロの犬のお腹に、3センチの傷跡は大きくはないか?
術後の生活の注意点などを聞いたあと、うちのビビリ屋さんはどんな様子でしたかと尋ねると、
「一度も吠えませんでしたよ。いい子でしたよ」とのこと。
ええ!?
一度も吠えなかった!?
それを聞いて私は思いました。
いい子だったのではない、小さなビビリ屋さんは吠えることもできないくらい怖かったのです。
消毒薬の匂いが広がる白い建物に連れて来られ、あげく小さな檻に拘束され、このあと何をされるのか恐ろしく、息を殺し自分の気配を消していたのです。
初めてペットホテルに預けられたとき、犬の中には捨てられたと思う子が多いと聞きますが、彼がもしそう思ってしまったとしたら?
ヒトの四倍の速さで時間を過ごす犬にとって、たった一日はそれこそ千秋の思いだったでしょう。
だとしたら、ビビリ屋さんの心の傷は3センチどころではなく、もっと大きく深い穴が開いてしまったかもしれません。
朝ゴハンどころではなかったはずです。
私は看護師さんから壊れ物を抱くように愛犬を受け取ると、彼にだけ聞こえるように小さな声でひとこと、ごめんね、といいました。
家に戻ると玄関先でブルブルブルッと体を整えた小さなビビリ屋さん。
透明なエリザベスカラーをつけた姿はまるで宇宙犬のようです。
まずはお腹が空いているだろうと彼の大好きな煮リンゴをあげてみました。すると、一気に食べてくれました。
ああ、良かった……。
動物の元気印はまずは食欲です。
「もう少ししたら一緒にゴハンを食べようね」
私も一人になってから食欲がなく、ホッとしたところで急激にお腹が空いてきていました。
いつものフードを用意し、私は朝のうちに作っておいたおにぎりを食べることに。消化がいいように、フードはお湯で柔らかくしたものをあげました。
私の心配をよそに、愛犬は自分の分をペロリとたいらげると、おにぎりを食べている私にむかって形のいいオスワリをしています。
私のこと( もしくはおにぎり )をじっと見つめるビビリ屋さん。
一口すすむごと、塩を振った雪山は崩れていきます。
中身の鮭も、もうあとひとかけら。
人が食べているものを愛犬には絶対あげないのが我が家のルールですから、病み上がりで同情すべきでもここは譲れません。
愛犬のウルウルした瞳にじっと見つめられ、食べにくかったけれど私はとうとう最後の一口を食べ終わりました。
ですが指に少しの米粒がくっついています。
んん……。
愛犬のまなざしに誘われ、私は禁断の指を彼にさし出してしまいました。
はむっ。
なぜそんなことができるのか不思議なくらいの優しさで、我が家のビビリ屋さんは私の指に残っていた数粒のご飯を、その小さな歯でこそげ取ります。
犬と暮らしている方ならわかる、私たちを絶対傷つけない絶妙な力加減で。
本気になればヒトの指などかみ砕く力を持つ牙を覆うのは、仲間への配慮という彼らの本能です。
こんなに優しい動物がこの世に他にいるでしょうか?
犬はいつだって、なんの足し算も引き算もない純粋な愛情を私たちに見せてくれます。
愛犬はもう私が何も持っていないとわかると、米粒が一粒くらい落ちてないかなとフガフガと床を点検し、ないとわかると安心したようにハウスで横になりました。
自分の家にもどり安心してくれたのでしょう。
それが私にも伝わってきました。
私たちの絆はつながったままだよね?
こちら側の都合で去勢という行為をした自分を、愛犬は許してくれたでしょうか?
禁断の数粒はその効力があったか、なかったか。
二人だけの内緒の儀式で私に償いをさせてくれた小さなビビリ屋さんが、私はこの世の何よりも愛しいと思うのでした。