しかのこのこのここしたんたん〈山中鹿之介〉
1.山中 鹿之介とは
「願わくは、七難八苦を我に与えたまへ」
そう三日月に祈り、主家再興のために奔走した悲劇の人物として、山中鹿之介幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)は有名な戦国武将です。
苦労を美徳とする日本においては、上記の名言やその生涯がよく引用される人物であり、名前だけは聞いたことがあるという人も多いでしょう。
しかし、日本において語られるのは、あくまで苦労した一面ばかりであり、その全てについて詳細に語られることはあまりありません。
今回はそんな山中鹿之介という人物について紹介していこうと思います。
2.主君、尼子氏について
山中鹿之介に関する話をする前に、まずは彼が仕えた主家、尼子家について解説します。
尼子氏は中国地方は出雲国(現在の島根県東部)に居を構える大名です。室町時代の初期で強い影響力を誇った武将、佐々木 道誉。その孫である京極 高久が姓を尼子に改称し、高久の次男・持氏が出雲の守護代として出向、そこに月山富田城という城を立てたことで、尼子氏という大名が戦国時代に現れることとなりました。
尼子家は京極家とルーツが同じということで、用いている家紋も同じ『平四つ目結』です。なお、出雲国にも京極家は存在しており、尼子家ともかかわりはありましたが、京極 吉童子丸が死去したことで出雲京極家は断絶。最終的に尼子家に吸収される形になりました。
そんな尼子家が最盛期を迎えたのは、5代目当主・尼子 晴久の時です。
晴久の代の時、尼子家は出雲国を含めた山陰・山陽地方八か国を治めるに至っており、あの石見銀山をも手中に収めました。晴久の手腕は確かであり、戦においてはあの毛利 元就を苦戦させるという優秀さでした。
こうして最盛期を迎えていた晴久ですが、身内との関係性に関してはあまり得意ではなかったようで、新宮党と呼ばれる尼子家中の武力精鋭との確執は結局次代の義久の代まで引きずることになってしまいました。
1561年に晴久が急死すると、それを狙ったかのように毛利 元就は石見銀山に侵攻。そこから尼子家の未来に暗雲が立ち込めるようになりました。
3.山中 鹿之介、その人生
前半生
山中鹿之介の前半生は、資料が大きく不足していること、そして後世による創作が混在していることによって謎に包まれています。
出生は主に、『雲陽軍実記』からの引用で天文9年(西暦1545年)、あるいは『太閤記』からの引用で天文14年(西暦1545年)の二つが提唱されていますが、現在では天文14(1545年)年説が通説となっています。
少なくとも、彼は16歳の頃に初陣を果たし、その時に敵将の首級を上げて名を挙げたことで、安土桃山時代の資料にようやく名前が出てくるようになります。
それから尼子 義久に仕えた鹿之介は、侵攻する毛利勢と尼子勢の抗争である第二次月山富田城の戦いに参戦することになりました。
第二次月山富田城の戦いにおいて、鹿之介は品川 将員(しながわ まさかず)と一騎討ちを行い、これを討ち取りました。
品川 将員は鹿之介の好敵手としてその名前を上げられる戦国武将であり、鹿之介と戦うために棫木 狼之介(たらぎ おおかみのすけ)と名を改めており、その意気が伺えます。
しかし鹿之介の奮戦も空しく、月山富田城の戦いは尼子 義久が毛利家に降伏することで終わりを迎えました。これに伴い、義久は毛利家の領内にある寺に幽閉されることとなり、鹿之介は義久についていくことを望みましたが、義久はこれを拒否。二人は出雲大社の前で今生の別れを交わしたと伝えられています。
尼子家再興運動
尼子家滅亡後、しばらくその動向は不明でしたが、一説には武田 晴信(武田 信玄)、長尾 景虎(ながお かげとら)、北条 氏康といった軍略家の元を渡り歩いて軍法を学んだとされています。
その後、鹿之介は叔父の立原 久綱を筆頭とした尼子家旧臣と共に、京都に出家していた新宮党の末裔、尼子 勝久を新たに尼子家の当主とし、尼子家再興の機を伺いました。
その後、毛利家の三本柱ーーもとい三本の矢である毛利 輝元、吉川 元春、小早川 隆景が軍勢を率いて北九州に出陣したタイミングで尼子再興軍は進軍開始。これを機に、毛利家が台頭する以前に中国地方の覇権を握っていた大内家の末裔、大内 輝弘が呼応して反乱。その上で毛利家に対して不満を持っていた地方豪族が決起し、尼子再興軍と息を合わせた動きを見せました。
かつての居城である月山富田城を包囲した尼子再興軍ですが、そこはさすが毛利 元就、彼の軍略によって大内 輝弘は敗北し自害。更には次々と反乱が鎮圧されていき、月山富田城が難攻不落の城だったこともあり、尼子再興軍は苦戦を強いられることになりました。
そうこうしている内に、毛利 輝元、吉川 元春、小早川 隆景が帰還。月山富田城へと向かってきたことで尼子再興軍は後退。布部山でいよいよ対峙しますが、そこで尼子再興軍は蹴散らされることになりました。
敗戦後、鹿之介は捕らえられ、幽閉されることとなりましたが、毛利家の仲にも鹿之介の実力を認めているモノがおり、彼の助命嘆願が乞われたことによりその命を長らえていました。
この時、鹿之介は自身の尻を刀で傷つけた上で何度も厠(トイレ)に行き、毛利兵に「自身は赤痢である」と嘘をついて脱走しました。
三日月に向かって、鹿之介は叫びました。
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」とーー
織田信長との出会い
山名 豊国と手を組んで二度目の侵攻を行うも敗北。
その後は織田 信長の元に頼り、明智 光秀、織田 信忠、羽柴 秀吉(後の豊臣 秀吉)と共に織田軍の一員として各地で転戦しました。
新しい物や優秀な人材が好きな信長にもその名前は行き届いていたらしく、鹿之介は駿馬や刀を与えられました。
その後、羽柴 秀吉率いる中国侵攻軍に主君の尼子 勝久と共に参入。その武勇をもって、毛利方の拠点の一つである上月城(こうづきじょう)を攻略。鹿之介の働きが認められたためか、尼子家は上月城を拠点とすることが許されました。
しかし、物事はそう上手くいかないものでした。
天正6年(1578年)、突如として羽柴 秀吉に対して別所 長治が反乱を起こし、上月城とそれほど遠くない三木城を占拠してしまいました。
これを好機として、毛利 輝元は行動を起こしました。武勇に長けた吉川 元春に軍勢を預け、上月城へと進発。尼子家と鹿之介に最大の危機が訪れることとなりました。
鹿之介は危機を感じて秀吉に援軍を要請しましたが、秀吉の主君である信長は別所 長治の討伐を最優先するように秀吉に指示を出しました。それ故に尼子 勝久が籠る上月城はたちまちのうちに毛利軍によって包囲されてしまい、やがて尼子再興軍は毛利軍に降伏。
しかしーー降伏の条件は『尼子 勝久及びその親族の切腹』。
これを受けた勝久は、尼子再興軍のために命を尽くした家臣達のためにこの条件を呑み、自害。鹿之介もまた捕えられ、毛利領内に護送される途中で暗殺されてしまい、尼子家再興の夢と共に消えてしまいました。
天正6年7月17日(1578年8月20日)。
憂き事の 尚この上に 積もれかし 限りある身の 力試さん
4.後世の山中 鹿之介
江戸時代になると、山中 鹿之介は創作によく登場することになりました。
実は『山中 鹿之介』という名前も江戸時代の講談や軍記物語で広がったものであり、本来の名前は『山中 幸盛』です。
江戸時代の創作物で用いられた名称が後世で本名以上になってしまった例としては、他に真田 幸村が存在しております。
戦前の評価
・頼 山陽
江戸時代の歴史家である頼 山陽は山中 鹿之介のことを『山陰の麒麟児』と評価しており、「鹿」を名に冠してはいるものの、彼の虎や狼をも打ち破る武勇は鹿に劣らず、その武勇は麒麟と呼ぶに相応しいと言いました。
・勝 海舟
ここ数百年の歴史で、逆境に立ち向かった真の英雄として、忠臣蔵で有名な大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)と共に名前を挙げました。
・板垣 退助
愛国心や自己犠牲の精神の象徴として、山中 鹿之介を尊敬する人物としてその名前を上げていました。
幕末、明治の人物からはその生涯を評価されており、特に学校教育の場では彼の逸話が物語の一つとして教科書に掲載されるほどでした。
現代の山中 鹿之介
光栄(現・コーエーテクモゲームス)が誇るゲームシリーズ『信長の野望』において、山中 鹿之介は武勇が極めて高い武将として設定されています。登場初期の頃は政治能力も高めに設定されているなど、おおむね史実での活躍を鑑みられております。
また、同じく光栄から発売された戦国無双シリーズでも、主に天下統一を目指すエンパイアーズシリーズでは「我に艱難辛苦を与えたまえ」という名言を必ず口にするという、特殊なNPCキャラクターとしてデザインされています。
シリーズ第5作にもなると新キャラクターとして登場。朗らかで、さっぱりとした好青年として登場し、主人公の一人である明智光秀と親交を築き、尼子家再興のために毛利 元就や小早川 隆景といった武将と敵対していくこととなります。
そして、戦国無双と共に戦国時代を題材としたゲームとして有名な『戦国BASARA』シリーズにも、ナンバリング第4作にて登場。行方不明になった主君・尼子 晴久を探すため、謎の鹿「おやっさん」と共に全国を奔走する少年として描かれています。
そのためか、彼のシナリオはどこかの眼鏡をかけた名探偵の如く、推理と容疑者への聞き込みがメインとなっておりますが、その推理能力は極めて低く、名推理というよりは迷推理の様相を呈しています。
戦闘の際は、鎖でつないだ二本の棍棒で戦い、その上、おやっさんから装備を拝借。どこかの聖なる闘士の如く装着します。
基本的に敵として登場する機会がほぼないという特殊な立ち位置のキャラクターですが、足利 義輝や大友 宗麟など、一見関係のなさそうな勢力に潜入捜査と称して、敵として唐突に登場することもあります。
5.最後に
山中 鹿之介の長男、山中 幸元は、山中家とは親戚関係にある黒田家に養子に出されていましたが、ご存じの通り鹿之介は毛利家との戦いで死亡。幸元を保護していた黒田家もその後、豊臣 秀吉によって滅亡され、彼の行方はようとして知れなくなりました。
ーーが
伊丹の地(現在の兵庫県伊丹市)で、彼は鴻池 新六という名で酒造業を営んでいることが明らかになります。
鴻池 新六が作り出した酒は清酒と呼ばれており、今日まで日本酒と共に、日本固有の酒としてその文化が伝わっております。
鴻池家の一人、鴻池 善右衛門は後々大坂(現在の大阪府)へと進出し、江戸時代においては豪商としてその名を馳せることとになり、彼らが築き上げた財は凄まじく、明治時代に入ると鴻池財閥として日本最大の財閥として有名な存在となりました。
鴻池財閥は後に銀行を設立、その銀行は現在の三菱UFJ銀行の前身となり、山中 鹿之介が繋いだ意志は、現代まで受け継がれることとなりました。
七難八苦の試練を乗り越える意志、その意志は決して途絶えることは無いことを彼は数百年前から彼は伝えてくれました。
現代社会は非常に風が強く、心身ともに疲れ切ってしまい、ふとした瞬間に折れてしまうこともあります。
しかし、そんな時にこそ山中 鹿之介という人物を思い出し、月を眺めてその思いに更けてみてはいかがでしょうか。
ここまでご高覧いただきありがとうございました。ぬん。
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