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Let’s Party‼〈伊達政宗②〉
今回の記事は〈伊達政宗①〉の続きとなります。
始めにそちらをご覧いただけると幸いです。
1.家康と政宗
関ケ原の戦い
秀吉の死後、政宗は豊臣政権において大きな権力を有していた、五人の大老の一人、徳川 家康に急接近します。
慶長4年(1599年)、秀吉の死後、政宗は自身の娘である五郎八姫(いろはひめ)を家康の六男である松平 忠輝に嫁がせます。なお、秀吉はこの時、大名間の私的な婚姻を禁じており、政宗はこの秀吉のルールを破る形となります。まあ今に始まったことじゃないし
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その後、慶長5年(1600年)、天下分け目の大戦としてその名を後世に残すことになる関ケ原の戦いが起こることになります。毛利 輝元を総大将とする西軍と、徳川 家康を総大将とする東軍とする日本を舞台とした、壮大な派閥争いに、政宗は東軍側に所属しました。
政宗は秀吉に降伏する際に、所領の大半を取り上げられており、その勢力は現在の宮城県の大半のみだったと言われています。人取橋の戦いや摺上原の戦いを経て手中に収めた政宗の領地は、上杉氏、及び佐竹氏に分配される形で各々の勢力下に置かれていたのですがーー西軍が挙兵したことで、事態が変化し始めます。
石田 三成が兵をあげて伏見城を攻撃したタイミングで、上杉の重臣・直江 兼続が会津(現在の福島県)で挙兵、家康を挟み撃ちにしようと画策。会津には東軍についた佐竹氏がいましたが、当主である佐竹 義宣(さたけ よしのぶ)は西軍の石田 三成と親しい間柄にあり、いつ裏切ってもおかしくない状態でした。そこで家康は政宗に対して、かつての領地を合わせた百万石を与えることを担保に、自身に味方するように迫りました。
かつての領地は、現在の上杉・佐竹領地のことーーつまり家康は、政宗に対して侵略行為を唆したことになります。これは後に『百万石のお墨付き』と呼ばれ、政宗の侵略が成功したならば、文字通り百万石の大大名となれるからです。
これを好機と見た政宗は、石田 三成、ひいては豊臣政権に怨恨を持つ叔父・最上 義光と共に直江 兼続へと対抗。伊達・最上連合軍と、兼続率いる上杉軍の戦いが始まります。
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兼続はこの時、傾奇者と名高い前田 慶次と共に義光がいる出羽国へと侵攻、庄内・米沢の二方面から侵攻し、最上軍を圧倒していきます。これを危機と見た政宗は、家臣であり叔父である留守 政景(るす まさかげ)を援軍として派遣。この時に腹心である小十郎からは『上杉と最上が疲弊し切った時を狙う』よう言われていましたが、政宗は家康との建前、そして母である義姫、その兄である義光を見捨てることはできないことを理由にこれを一蹴しました。
援軍が到着すると、最上・伊達連合軍と上杉軍の戦いは長谷堂城を中心に激化。後に『慶長出羽合戦』『北の関ケ原』と呼ばれるほどの激戦となりました。そんな中、両陣営に衝撃的な報告がもたらされます。
石田 三成、関ケ原にて敗北ーー。
これを聞いた兼続は直ちに撤退、義光は上杉軍に奪われた領地を次々と取り返すばかりか、秀吉に従属する以前の勢力を取り戻すにいたしました。
何とも煮え切らない結果
しかし、政宗の戦果はどうにも振るわない結果となっており、旧領の内、取り戻せたのは刈田郡(現在の宮城県刈田郡)のみであり、かつて蘆名氏から奪った領地に関してはほぼ取り戻せなかったという、どうにも振るわない結果となりました。
なぜこのようなことになってしまったのかーー
大きな原因は、関ケ原の戦いがあまりにも早く終わり過ぎたことです。
島左近の壮絶な討ち死に、小早川秀秋の裏切り、島津義弘による捨て身の撤退劇など、逸話に事欠かない関ケ原ですが、この戦い自体は僅か半日で終了しており、月単位、年単位という非常に長い期間で戦争が行われることを考えると極端に短い期間であったと言わざるを得ません。
この時、政宗はというと、上杉軍を攻撃してはいたものの、緒戦での敗北が続いてしまい、刈田郡を攻略して以降はどうにも振るわず、その間にも最上軍の援助を行うなど、伊達領の拡大には手が回りづらい状態となっていました。
先述した通り、片倉 小十郎はこの時に最上と上杉が疲弊した隙を突いて出羽を手中に収める策を政宗に提案していましたが、政宗は現状を鑑みた上で家康への義理を通すことを優先したのかもしれません。
また、実はこの時、東軍に属する大名、南部 信直が治める陸奥国(むつのくに、現在の青森県及び岩手県)は和賀領への侵攻を画策しており、政宗はかつて和賀領を治めていた和賀 忠親の一揆を煽動、及び支援しました。岩崎一揆、和賀一揆と呼ばれたこの一揆ですが、政宗の想定よりも早く制圧され、反乱の主であった忠親も切腹して幕を閉じました。家康への義理はどうした
なお、この時に一揆を煽動いたことが戦後に家康に露見してしまい、煽動の件は不問とされましたが、上杉が治めていた旧領に関しては刈田郡を除いて戻してはもらえませんでした。
余談になりますが、旧領である伊達、置賜はそれぞれ、現在の福島県伊達郡、山形県米沢市や長井町などを含む置賜地方として現在までその地名を残しています。
政宗は宮城県に縁が深い人物ですが、苗字である伊達を冠する土地や、自身の出生に関わった土地が、現在まで別の都道府県にあるというのは、何とも皮肉な話です。
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2.初代仙台藩主
関ケ原の後、家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を成立させました。
これに合わせて政宗も、慶長6年(1601年)、千代(せんだい)の地に建っていた千代城を改築。新たに仙台城を作り上げ、千代の地を仙台へと改めました。
関ケ原の功績もある程度認められていたため、この時に家康から仙台藩と名乗ることを許され、ここに初代仙台藩主・伊達 政宗が誕生することとなります。
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100万石に近い男
仙台藩主となった政宗は、まず検地を行いました。秀吉が行ったことで有名な検地ですが、そもそも検地とは何か、という話ですがーー
土地の面積、及びその土地から獲れる収穫物の生産量の調査をすることであり、そこで判明した生産量を『石(こく)』と呼ばれる単位で計量。そうして領地内の全体的な生産量がいかほどのものかを調査することを言います。
また、生産量の調査とは別に、土地の所有者が何者なのか、またその人物の血縁関係、他の土地の所有者に関係する人物がいるのかーーという人物関係に関する調査もありました。
これらの政策は、室町時代以前まで続いた荘園制が主に大名や寺院と言った特権階級のみが甘い蜜を吸う政策を一掃するという目的と、農民から年貢をより効率的に徴収する目的の元に行われました。これまで不透明だった土地に関する関係性を検めるーー故に検地と呼ばれました。
そうした検地を行った結果、仙台には未活用の土地が多くあり、政宗はそれらの土地を開墾することで仙台を発展させることを考えました。
まず政宗は、家臣である白石 宗直に、仙台の中で特に大きな氾濫を起こすことで名が知られていた北上川の治水事業を命じました。宗直が築き上げた堤防によって北上川は流路が変更され、新田開発に適した川として仙台の土台を支えることとなりました。なお、この時に宗直が築き上げた堤防は『相模土手』と名付けられました。
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その後、川村 孫兵衛 重吉によって北上川・江合川・迫川の三本の川を合流させるという治水事業が行われ、四ツ谷用水が完成、この時に完成した用水路は江戸時代には農業用用水や生活用水の用途として、明治時代以降には工業用用水の用途で用いられ、現在では土木遺産として今もその存在が残っています。
なお、北上川の開墾事業の一環で、北上川河口に石巻港が開港されました。この石巻港は、米の搬出港として機能し、仙台、胆沢(現在の岩手県)はもちろんのこと、江戸でも重宝されており、江戸で消費された米の三分の一は、この石巻港から搬出されたものだと言われています。
スペインとの交易
慶長18年(1613年)、政宗は家臣の支倉 常長(はせくら つねなが)を遣欧使節に任命し、スペイン、ポルトガル、ローマとの交易を始めました。
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交易のために作ったガレオン船はサン・ファン・バウティスタ号と名付けられ、ルイス・ソテロ、セバスチャン・ビスカイノといった当時日本を訪れていた宣教師、探検家と共に大海原へと出航しました。
交易の目的は、まだはっきりとしたことは分かりませんが、仙台の発展のためであったり、海外との軍事同盟を経て倒幕を目論んでいたなど、様々な説が語られています。とはいえ、慶長遣欧使節と呼ばれた支倉 常長の遣欧は、家康のお墨付きをもらっており、幕府と海外の橋渡しの意味合いを持っていたことは明らかです。
支倉 常長はその後、日本人として初めて太平洋・大西洋を横断し、スペイン、ポルトガルを巡っていき、日本人として初めてローマ法王と謁見するという快挙を成し遂げることとなります。
しかし、翌年には禁教令が発布されたことにより、スペインとの外交政策は不発。まるで幕府転覆の企てが頓挫したかのように、政宗は幕府に対して急接近するようになります。
大坂の役での活躍
慶長19年(1614年)、20年(1615年)に及んだ家康による豊臣征伐にも、政宗は出陣しました。
慶長20年に行われた大坂夏の陣では、道明寺の戦いにおいて、片倉 小十郎の息子である片倉 重長が、豊臣方の武将である後藤 又兵衛を討ち取るという手柄を挙げたものの、その後の真田 幸村を相手にした際には手も足も出ないという有様でした。
幸村の強さに対して、徳川軍の先鋒を務めた水野 勝成は何度も政宗に援軍を要請しましたが、政宗は『鉄砲弾が足りない』『負傷兵が多い』という適当な理由でこれをことごとく拒否しました。
結局幸村の攻勢を押さえることは敵わず、幸村は「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」と嘲笑したと言います。
※意訳・百万も兵おるのに度胸あるやつ誰もおらんくて草
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その後、政宗は神保 相茂(じんぼう すけしげ)という武将が率いる部隊を銃撃によって壊滅、更には神保自身を討ち取るという活躍をしました。
なお、神保は徳川方の武将であり、水野 勝成と親しかった人物であるとされています。え?何してんの?
このことは徳川軍として参戦していた諸大名に知れ渡ることとなり、政宗は強く批難されることになりました。後に家康からこのことに関して糾弾されると、『味方が総崩れになってしまったために仕方なくやった、伊達の軍法に敵味方の区別は無い』と語ったとされています。当主が味方に撃ち殺されるという憂き目を見た神保家ですが、大大名である政宗を刺激するのはよくないと幕府は判断、そのことを見越していたのか、政宗自身も神保家の訴えは無視していたそうです。もう無茶苦茶やん。
3.晩年
伊達の親父殿
先述した川村 孫兵衛による治水事業は、大坂の役以降の話になります。
政宗は二代将軍・秀忠、三代将軍・家光と大変親しく接しており、特に家光からは『伊達の親父殿』と呼ばれていたそうです。
家光の代になると、戦国の世を生き抜いた人物はほとんど亡くなっており、家光は政宗から戦国の世についての話を聞き、自分が生まれる前の時代へと思いを馳せていたのかもしれません。
余談ですが、家光の治世で存命だった戦国時代の人物として政宗の他に、西国無双と呼ばれ、天草 四郎の乱にも参戦した立花 宗茂、幸村の兄であり、四代将軍・家綱の代まで生きた真田 信之が挙げられます。
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息子・伊達 秀宗
政宗の息子である伊達 秀宗は、大坂の役で父と共に出陣。その功績が認められ、四国の伊予国(現在の愛媛県)に宇和島藩という藩を持つこととなりました。
しかし、元和6年(1620年)に起きた山家 清兵衛事件、通称・和霊騒動でその関係性に亀裂が入ります。事件名にもなっている山家 清兵衛とは、秀宗が四国に来る際に政宗から遣わされた家臣であり、政宗からの信頼も非常に暑い人物でした。しかし、秀宗は清兵衛を疎んじ、自身がかわいがっていた家臣を重く用いるようになり、その家臣の手によって清兵衛は四人の息子と共に暗殺されてしまいました。
事態の発覚を恐れた秀宗はこのことを隠蔽しようとしましたが、政宗はどこからか清兵衛の死を知ってしまいました。息子の裏切りに等しい行動に政宗は幕府に対して宇和島藩の改易を嘆願しましたが、幕府の仲介もあってどうにか改易は回避される形となりました。しかし、この事件をきっかけに、政宗と秀宗、父と息子の関係性はどうにも気まずいものとなってしまいました。
事件の翌年、政宗と秀宗は直接面会。政宗はそこで初めて、息子の胸中に触れることになります。長男でありながら仙台藩の跡継ぎには選ばれなかったことーー江戸幕府への忠節を誓うためとはいえ、仙台ではなく江戸で人質として長く生活していたこと。
そうした息子の思いを受けてか、政宗は秀宗に対して勘当を言い渡していましたが、撤回。以降は非常に親密な関係性を築き上げていったとされています。
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最期
寛永11年(1634年)、政宗は体調不良を訴えるようになり、次第に杖を突かなければ歩けない状態になっていきました。
そして寛永13年(1636年)、政宗は亡くなりました。亡くなる際、政宗は妻子の前には姿を現すことがなかったとされており、自身の弱った姿を見せまいとする『伊達男』の気概を見せていたとされています。
『曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く』
4.現代の伊達政宗
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1987年に放送された大河ドラマ『独眼竜政宗』は、歴代の大河ドラマの中で平均視聴率が一番高く、まだ梵天丸だった頃の政宗が、不動明王像の前で『梵天丸もかくありたい』というセリフは大流行し、真似をする子供たちが続出したと言われています。
出演した俳優も非常に豪華であり、主演には渡辺 謙氏、父親の伊達 輝宗役には北大路 欣也氏、母親の義姫役には岩下 志麻氏、腹心の片倉 小十郎役には西郷 輝彦氏、そして豊臣 秀吉役には勝 新太郎氏を起用するなど、名だたる俳優、女優が出演しました。
最終回には政宗の墓所である瑞鳳殿が紹介され、その上で政宗の遺骨が登場し、大河ドラマとしては類を見ない本人出演を果たしました。現代においても、やはり政宗は掟破りの存在でした。
なお、この大河ドラマの影響で、渡辺 謙氏は一躍時の人となり、眼帯を右目に付けた伊達 政宗のイメージが多くの人につく形となりました。実は眼帯が描かれた政宗の肖像画は存在しておらず、その大部分が両目がきっちり描かれたものであったり、右目が塞がった状態で描かれていました。
他には、ドラマの最初に数分ほどの解説が行われるという演出が、本作から慣例化しました。また、実は最上 義光の描写に関して山形県の人々から抗議の電話が一定数かかってきたことも明らかになっております。これは政宗が主役ということもあり、義光を敵役として描写していたのですが、あまりにも腹黒い描写が多いために、そのことが山形県の人々から批判を集める結果となってしまったと推測されています。
実際、山形県山形市には、最上 義光が行った事業が現在まで残っており、山形県の代表的な戦国武将として、そして仁君としてその名を挙げられるほどの存在です。これに関しては政宗が主役ということ、そしてドラマの影響力が非常に大きかったことが原因だと考えられます。
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こうして大河ドラマで大きな知名度を得た伊達政宗は、サブカルチャーでも大きな注目を浴びる戦国武将となりました。
コーエーが誇るゲームシリーズ『戦国無双』にも登場し、野心溢れる東北の大名であり、他人に対しては『馬鹿めが』と呼ぶほどの傲慢さを持っています。その一方で、誰よりも早く世界に対して視野を広めており、日本を列強と並んでも遜色ないほどに強く豊かな国にしたいという、彼なりの天下の理想像を抱えております。
初代・戦国無双では『10年早く生まれていれば天下を獲れた』という話をそのまま表現したシナリオとなっており、史実よりも早いタイミングで奥州……どころか東北を制覇、そのままの勢いで川中島、桶狭間、長篠と言った有名な合戦に第三勢力として乱入しまくるという特別感満載のストーリーとなっています。
シリーズ二作目では秀吉の天下取りや関ケ原の戦いに焦点があてられるようになり、小田原征伐から始まり、北の関ケ原と呼ばれた長谷堂城の戦いなど、概ね史実通りの流れを辿る形となりますがーー大坂の役での幸村の生き様を目の当たりにし、かつての野心溢れる自身の姿を思い出し、三方ヶ原で家康に挑むというシナリオとなっています。
その後、シリーズ三作目では、初めて父を撃った過去が語られ、雑賀 孫市と共に匿名で上田城の戦いに参加。同世代である真田 幸村や、前田 慶次、直江 兼続との絡みも描かれることになりました。
そしてシリーズ四作目では、腹心の片倉 小十郎がキャラクターとして登場。冷静沈着かつ毒舌な参謀の小十郎に諫められながらも、伊達家の若き当主として戦国の世に身を投じる姿が描かれました、なお、これは三作目からですが、葛西大崎一揆、奥州仕置において明確に豊臣政権への反乱の裏から手引きしていた様子が描かれています。何なら政宗自身も一揆側として参戦して、石田 三成や前田 利家といった豊臣政権で重要なポジションを担う武将を撃破をしちゃっています。んな無茶苦茶な……いや、政宗ならやるか。
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そして、現代で一番有名な伊達 政宗といえば、『戦国BASARA』の政宗でしょう。破天荒かつカリスマ溢れる性格は史実通りなのですが、戦国時代なのに英語を話し、馬の乗り方も手綱ではなくバイクのハンドルのようなものを付けており、特徴しかなさすぎる乗り方をするなど、戦国時代を題材にしたゲームの中でも、かなり尖りまくった存在となっていました。
極めつけは『六爪流』と呼ばれる、両手に三本づつ指に挟んで戦うという、これまた特徴的な戦闘スタイルで戦います。通常状態では刀一本で戦うオーソドックスなスタイルなのですが、必殺技を用いる、もしくは固有のスキルを用いることで六爪流へと変化します。
余談ですが、この六爪流に関しては空想科学読本で現実に可能かどうか検証されたことがあり、結論だけを話すと指一本でリンゴを無反動で潰すほどの力があれば可能だそうです。指一本にかかる力はおよそ43トンであり、足場があれば指一本でタンカーを持ち上げることも可能だそうです。奥州筆頭は伊達じゃねえ……。
周辺人物に関して言えば、腹心の片倉 小十郎も当然参戦しており、仁侠を絵に描いたような人物として描かれています。政宗には強い忠誠心を誓っており、政宗のためであれば命を投げ出すほどの覚悟を持っており、小十郎が政宗に剣術を教えたという設定もあります。さすがに六爪流は政宗オリジナルのスタイルらしく、小十郎は基本的に一刀で戦うものの、状況に応じて二刀流や、喧嘩番長のような戦い方へと変化します。
また、同世代である真田 幸村とはライバル関係にあり、全てのシリーズにおいて幸村と対峙する様子が描かれています。
そして、BASARAの政宗を語る上でもう一つ欠かせないのが、現実における彼の影響力でしょう。2009年の宮城県知事選挙において、若者の投票率を上げる目的で、BASARAの政宗がイメージキャラクターとして採用されており、見事にその目的を達成しました。
5.最後に
現在の仙台市の基礎を築き上げた伊達政宗、彼の存在感と影響力は現在にまで及んでいます。
彼が築いた仙台城は、青葉城とも呼ばれており、その城跡には馬に乗った政宗の銅像があり、宮城県の観光名所として今でも観光客が多く訪れる名所となっています。
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そんな政宗ですが、実は現在では神となったことをご存じでしょうか。
宮城県仙台市青葉区青葉町には、政宗をご神体とする青葉神社が存在しています。
ここでの政宗は『武振彦命(たけふるひこのみこと)』という名で祀られており、宮司を務めている方は片倉小十郎の子孫であり、戦国BASARAがヒットした際には政宗や小十郎を目的として青葉神社を訪れる歴女が多く現れました。
JR仙山線・北仙台駅から徒歩5分でアクセスできる場所にあり、ご興味がある方はぜひ、仙台を訪れた際に足を運んでみてはいかがでしょうか。
ここまでご高覧いただき、ありがとうございました。