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アパートとラーメン


今は無きそのアパートは、車が騒々しく行き交う幹線道路から横道に入った住宅街にあった。

緩い上り坂になった道を進み、二つ目の角を右に曲がる。両脇に家がぎっしり並んでいる道をてくてく歩くと、やがて見慣れたブロック塀が現れる。ここまで来ると、もう車の騒音も聞こえない。
小さな鉄門を開き、ステップを上がる。
木造2階建てアパートの1階部分に三部屋。2階に三部屋。
私は金属製の階段を音を立てぬようそっと上り、202号室の前に立った。

ピンポーーーン

チャイムを鳴らしてしばらく待つも、応答がない。
持っていた合鍵を差し込みドアを開けようとすると、ドンッ!と音がしてチェーンに遮られた。

ピンポーーーン

もう一度チャイムを鳴らすも無反応。
しかも、部屋から何やら異様な臭いが漂ってくる。
私はダメで元々、軽い気持ちでドアの隙間に指を入れ、チェーンの「押」を押さえながら上に引き上げた。
するとどうだろう。
するり、あっけなくチェーンが外れてしまったではないか。

唖然としながらも勝手に中に入り、チェーンをまじまじと眺めれば、それはどうみても長すぎるのだ。
なんと物騒なアパートであったことか。
手前に台所、奥に風呂とトイレ。反対側に六畳ほどの和室があり、木とガラスの引き戸が半開きになっている。
異臭がますますきつくなる。

彼は畳の上に敷いた布団の上で、気持ちよく熟睡していた。
その寝息から放たれる強烈なニンニク臭が部屋中に充満している。
揺り起こすと、彼はたいそう驚いた様子で、
「なんでおるねん!? チェーンしてたやろ!? 」と跳ね起きた。
「なんか外れちゃったから。それより何?このすごい臭い」
「ああ……Iでニンニク入りのラーメン食べたからなあ……」


🔹🔹🔹🔹🔹


「ラーメンI」は幹線道路沿いにある小さなラーメン店だ。
アパートに来るときに通った横道の角にある。

厨房の前に横一列に並んだカウンター10席のみのシンプルな構造。
店の横を通ると何とも言えないラーメンスープのおいしそうな匂いが漂い、深夜になると店の前にいつもたくさんの客が列を作っていた。

「上京してこのアパートに住み始めたとき、近所になんかえらい並んでるラーメン屋があるなあと思ったんよ。店の前通るとめっちゃいい匂いがして。それで並んで食べてみた」

そのラーメンの味は、夫曰く、
『自分が食べたラーメン史上最高のおいしさ』
であったという。
「おいしいと言われている他のラーメンもいくつか食べたけど、やっぱりⅠが一番だったなあ」

それほどおいしいのならばと、Ⅰに連れて行ってもらうことにした。
夜の10時。
列の最後尾に並び、カウンター席ではぐはぐとラーメンをすする10人の背中を眺めながら、待つこと30分。
いよいよ私たちの順番が回ってきた。

カウンター席に腰かける。
メニューは「ラーメン」と量の多い「Ⅰラーメン」の二種類。
(訂正。チャーシューメンもある)
スープの味は「正油」「味噌」「塩」の三種類から選ぶことができる。
さらに、オプションとして、具のトッピングやオロチョンの追加も可能。

私はラーメン味噌味、彼はⅠラーメン味噌味を注文。お腹がぽっこりと突き出た大将と若い従業員二人が、客の注文を受けて次々とラーメンを作っていく。
大将はいかにも職人気質な、無口で厳しそうな親父さんだった。
時々、若い従業員に指導している様子もうかがえる。
店内はおいしそうなスープの匂いが充満しており、学生やおじさんがおいしそうに麺をすすり、スープを飲み干している。そして「ごちそうさん」と大将に声を掛けて出ていくのだ。

「お待たせしました」
私たちの前にふたつのどんぶりが置かれる。
ぎっしりと入った麺とスープの上に、チャーシュー、コーン、モヤシ、ネギ、メンマ。
彼が頼んだⅠラーメンは一回り大きなどんぶり、具の量も多く、味付玉子も入っている豪華ラーメンだ。

細かい背脂が浮いたスープをれんげですくって一口。
うまみとコクが口の中に広がる。
脂っこさが無く、背脂はゼリーのような食感だ。
麺は歯ごたえのあるストレート麺。スープの味がよく絡んでいてとてもおいしい。チャーシューが柔らかく、これまたおいしい。
スープ、麺、具の一体感。
Ⅰのラーメンは大将が作り出した芸術作品なのであった。

大満足で食べ終わり、割りばしを置くと、突然、大将が私に近づき何事か話しかけた。
マナー違反でもして注意されたのかと驚いて大将の顔を見ると、なんと、あの無骨そうな大将がにっこりとほほえんでいるではないか。
何と言われたのかよく聞き取れなかった私は、とまどいながら大将に笑い返した。

🔹🔹🔹🔹🔹


その後しばらくして、Ⅰの大将が店に出なくなった。

Ⅰによく通っていた夫が言うには、Ⅰはその後も若い従業員たちだけで営業が続けられていた。常連客が「親父さん、どうしたの?」と尋ねていたらしいが、「ええ、まぁ、ちょっと」とにごしていたそうだ。
その後、私たちは結婚し、夫もⅠから足が遠のいた。

先日、「Ⅰに行こうよ」と夫を誘ったのは、Ⅰを特集したユーチューブを観たからだった。

Ⅰは当時と全く変わらない佇まいで、相変わらず行列のできる人気ラーメン店のようだった。現在の店主は先代の息子さんで、去年の12月でⅠは40周年を迎えたのだという。
もしかしたら、先代大将が厳しく指導していた若い従業員のひとりが、現店主だったのかもしれない。

1月末の寒い夜、私たちは徒歩10分ほどのところにある「ラーメンⅠ」を目指した。

騒々しい幹線道路沿いに、Ⅰのぼんやりとした灯りが見えてくる。
その日は運よく待ち客は一人だけで、私たちは10分ほどで入店することができた。
変わらない佇まい。
私はラーメン味噌味、夫は「食べきれるかなあ」と悩みながらもⅠラーメン味噌味を注文。
ほほ笑みながら注文を受けてくれた店主の顔が、私に話しかけたときの先代の顔とそっくりで、昔の記憶が鮮明によみがえる。

おいしい。Ⅰのラーメンはやっぱり、おいしい。
先代の作った芸術品を守り続けている「ラーメンⅠ」に、拍手。
店を出ると、待ち客は15人ほどになっていた。


🔹🔹🔹🔹🔹


帰りに、あのアパートのあった場所まで散歩する。

緩い上り坂になった道を進み、二つ目の角を右に曲がる。両脇に家がぎっしり並んでいる道をてくてく歩く……あの見慣れたブロック塀は、もう無い。
夫が15年ほど住んだアパートを結婚を機に出たと同時に、そこは取り壊され、跡地には2軒の住宅が建てられた。
隣にはあのアパートと双子のように建っていた同じ造りのアパートが、今もまだあった。

「あのアパートを出る時に、大家に言われたんよ。隣のアパートの同じ部屋番の鍵、いっしょだったんやって。衝撃やったわ」

夫の部屋の鍵で、あっちのアパートの202号室にも入れた、ということか。
なんと物騒なアパートであったことか。