すがっていた姿をふと想いだす。
恋人と久しぶりに電話でたくさん会話をした。
会話のひとつに、
“過去の栄光に縋るのはちょっと嫌だ”
という話が少し出た。
私にもそういう経験があった。
いつまでだったかは、もう忘れたが。
高校生時代、部活に全力を注いだ。
まあ注ぎすぎて、迷子になって、仲間に相談したかったけど、それの方法も私にはわからなく、できずにある時(周囲からしたら)突然に辞めた。
私は小さい頃から人に頼ることは最弱、
そして弱さは悪という概念があって、負荷を持ち歩いていたから。
上を目指す気持ちがある人間を集めてチームを勝手に作り、気持ちのない(と勝手に判断した)先輩を追い出してまで。
そして、上を目指した。
その時の賞状や写真を大切に保管していた。
卒業してからも、悔しかったシーンや逃げたシーンを悪夢として見続けた。
ずっと、あの時、の時間に縋っていた。
特に意味を見いだすわけでもなく。
たくさんの場所を渡り歩き生きるようになって
荷物が邪魔になって
事あるごとに
物を棄てるようになった。
まずは卒業アルバム
大事にしていたカメラ達
実家、育った場所もなくなり
モノに縋る、執着も減り、
そして過去の栄光品も捨てた。
そんな回想をしていたら
そういえば昔のシーンを再生する悪夢もほとんど見なくなったなと気付いた。
執着って、だいたいは自分にいいことをもたらすことではないんだな。
執着ではなく、慈しみ、愛すことのがすき。