to Marie on fifth avenue
どん兵衛事件から数カ月、スープがこぼれて起動しなくなったPCを目前にしてレクイエムのように『壊れかけのラジオ』なんかを口ずさみながら過ごしていたのだけれど、やっぱりキーボードを打って文章を書きたくなってしまい、新しい端末を購入しました。なので、さて、ダシの利いてないキーボードで初投稿です。
とはいえ、20代の頃ほどには書きたいこともありません。「世の中に何か言いたい」みたいな情熱がもう、まるで失くなってしまった。こないだ、とうとう、こどものお客さんに「おじさん またねー」と言われました。まぁそりゃそうなんだけど、35歳になっているということが不思議な感覚です。
わりと左翼かぶれというか、やや過激派の思想を学びながら運動家の方々と交流しつつ過ごしていた若い頃があって、他にも幾つかのカルト宗教と接してきましたが、結局のところ解ったのは、自分には”情熱を持つ才能”が無かったということ。
どのようなイデオロギーやリリジョンのもとであれ、私が実際に会い、語りあい、見て知ってきた方々には情熱がありました。
でもそれが私には、嘘みたいに無かった。
そのせいか、いつも落ち込んでいるように見られがちなので、周囲の優しい人達にたくさん励ましの言葉を頂いてきました。そのうちのひとつ、かつて先輩に言われたこと。
「男なら、高級車に乗って良い女を抱きたいじゃんか。一緒に頑張ろうよ」
確かに激励の意味合いのある暖かい言葉ではあったけれど、すんなり受け入れることも出来ません。
べつに高い車で羨望を得たくもないし、自分が好きな人ならどんな相手でも良い。
麻薬や銃撃・強盗の危険性がほとんど無く深夜に出歩けるというだけでとても恵まれた国に暮らせている。決して余裕はないけれど最低限の仕事もある。好きな音韻の文章を紡げる。これをあなたが読んでくれている。これ以上に望むことはさほど思いつかない。
いつか、ごく親しい人に「お前は観察者だ」と言われたことがある。
まったくそのとおりで、私は”観て知る”ことが子どもの頃からとても好きで”勝って得る”ことにはさほど興味が湧かなかった。空き地でシジミチョウを眺めていたらその日が終わってしまうような、そんな子どもだった。
太宰治は6月に世を去った。
全集をすべて読み終えたのは18歳の頃。斜陽の初版を神田で手に入れたのは21歳くらい。ずぅっと彼に憧れたまま、そろそろあの人の亡くなった年齢に追いつこうとしている。
これを読んでくれているあなたに、お願いしたいことがある。
もしあなたが5番街へ行ったならば、マリーの部屋を訪ねて欲しい。
もし私がこの6月を乗り越えることが出来たなら、
必ず会いに行くからと、彼女に伝えてほしいんだ。
一緒に生きてみたいんだと、彼女に伝えてほしいんだ。
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