映画と歩こう『Mississippi Burning』
「this can aluminium only opens maggot inside」
“この缶を開けるのは内側のウジだけ”
有り難いことに私の周囲には子供時代から、あからさまな人種差別をする者がほとんどいなかった。
在日の友達がいたり色んなカルト教徒の友達がいたり、理由はいろいろあったのかもしれないけれど、なんであれ、人種主義者が近縁にいなかったのは幸運だった。
たまにいたとしてもくだらねぇ俗な日本国内の話に限っていて「あいつは○○県の出身だから駄目だ」などと言うくせに、さほど多くの土地を知らない。東京人を差別する地方の人間を私がわりと迷惑だと思っている理由は、地方民を差別する東京人には広い世界を知らない馬鹿しかいない、という理由とほとんど同じだ。
知らないことは正直に、知らないと言えば良い。
であると同時に、知らない人達にはそれなりの尊敬を示すのも、ごく当たり前の礼儀だ。
嘘つきと嘘つきが虚勢を張り合うせいで、どれだけ周囲の人間が傷ついているか知らないのだろうか?
あいつらはこんな経験も無い、解らない、だから自分達は優位だと得意気に語る誰かのその地球の裏側では、まったく同じことを逆に誰かに言われているのだ。
1960年代の米国に於いて公民権運動が盛んだったあの頃を歴史的舞台にして制作されたのがアラン・パーカー監督作:
『ミシシッピー・バーニング(Mississippi Burning)』1988
主演はウィレム・デフォーとジーン・ハックマン。
南部の町で行方不明になった公民権運動家を捜索する、FBI捜査官を演じているコンビ。
あのふたりの役者はどのカットでも、美しいほどの演技だった。
KKKの犯罪は白人の汚点である。明確に汚点だろうと私は思うのだけれど、実際の現地の人々の感情は分からない。
私は日本で生まれて以来、海外で生活したことが無いので、世界的には恥ずかしいはずの「人種差別」についてもほとんど触れずに生きてきた。けれど様々なタイミングで思い知らされるのは、人種差別は当たり前のことなのかもしれない、ということ。
経済的、地理的、戦略的、そうしてもちろん歴史的な、様々な理由で人は人を差別してきたし、これからも差別を続けていくだろう。きっと永遠に。
『Mississippi Burning』の中盤で、捜査官がこう言う。
this can aluminium only opens maggot inside.
“この缶を開けるのは内側のウジだけ”
とても象徴的な台詞だ。
内部告発が無ければ、組織は決して変わらない。
今回ここで書きたかったのは創世記9章27節。
聖書を政治に利用している(一部の)ホワイトの異常な文節分解。ヘブライ語から翻訳されたものを英語で読んでいるにしても、あまりにも酷すぎる身勝手。文脈理解もクソも無いし、実際のところ悪意的。
つまり黒人差別のきっかけになる文章を排他的な一部の白人が意図的に曲解した部分であり、なんていうかもう眠いのでこのまま書くのはむりです。
どうぞ創世記9章の前後を含めて読んでみてください。180秒で読めるし、これが黒人差別の理由であるとしたら、アホすぎて笑えるぜ。
私はイエス様を文学的に信頼していますが、
過激なキリスト教徒については信頼できません。
聖書を読んだ人間は、国家のために命を捨てる兵士は別として、暴力行為に訴える理由は無い。
というわけで、またこんど。
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