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脳の外の幽霊

「知っている」とは何なのか?

 私は自分自身で宇宙に飛び立ったことがなく、ニュートリノを自分自身で観測することも出来なければ、そもそも深海に潜ったこともない。
 月が本当にあるかどうか、宇宙から観た地球が果たして本当に楕円形なのか、ニュートリノなんてものが実際に在るのか、深海領域の生物達が造り物ではない確証を、自分自身で証明できるのか?
 すべて、他者が証明してきたものだ。
 すべて、私以外の人々が発見してきたものだ。
 同様に幽霊などの「超常現象」も、
 すべて、私以外の人々が観測しているものだ。
 疑う理由も、信じる理由も、科学とオカルトが同じ位置にある。

「知っている」とは何なのか?

 こどもの頃、テレビを「魔法」だと信じていた。
 別に戦中生まれでもないけれど、あたりまえのように小さな箱の中で、知らない人たちがいきなりしゃべっている。
 わりと異常事態じゃないか?
 常識を受け入れられる人や、きちんと電機に詳しい人は、テレビを「普通」だと思うだろう。
 けれどこどもの頃、どころか今も私には、テレビは「魔法」である。

 テレビといえば、ちょっと寂しい話になるけれど、私はあらゆるスポーツに完全に興味がなくて、たとえばサッカーとか野球とかの話題に関して何一つわからない。
 で、ある日、わりと気を許していたはずのバイトの先輩と雑談しながら
「野球とか観ててもよくわからないんですよねぇ」と発言しただけで
「人の趣味を否定するとかクソ野郎だな」といきなり言われたことがある。
(おいおいマジかよ…)とは思いながら「あはは、そうですよねぇ」と誤魔化したけれど、こういう瞬間はたまにある。

「わからない」は「否定」ではない。

 ”話の早い”人たちに共通する話し方の特徴として、「わかる」ものと「わからない」ものへの価値判断が単純に同一という点がある。
 世間一般的に「あいつは理解できない」と発言する場合の「理解できない」は”許容できない”という意味を含むけれど、こだわりのない「理解できない」は単純に”自身の能力に於いて理解が及ばない”以上の意味合いは無いし、”話の早い”人たちは他者に対してもそれを理解している。

「知っている」とは何なのか?

「わからない」ことを他者のせいにしないのが理性的な人物であり、
「わからない」ことを自分のせいにした上でわかる努力をし、そうしてわかってなお許容できなければそれが生来の「許容できないこと」なのだ。

 なにより問題なのは「許容できないこと」を「わからない」せいで受け入れて、知らずに他者を弾圧するような場合である。
 8月15日を過ぎたこの夏、日本人ならわかるはずの話だ。

「わからない」ことを他者のせいにする場合は安易に自身を”正義”の側に置いてしまう可能性がある。そして正義は残念ながら”群れる”ことを基本的な習性としている。さらに残念ながら”群れる”ことから産まれた正義は、基本的に間違ってばかりいる。

 私は「わからない」ことに囲まれながら生きてきたし今も、わからないことだらけの内に在る。
 もともと脳みその能力があんまり高くないことも当然関係しているし(小学生の頃のIQテストがたしか50くらい)、歳を経るごとに、自分の馬鹿さ加減に殴られた傷が増えていく。

だからこそ「わからない」自分を信じていたい。
「わからない」ということを知っていたい。
「どうせ自分なんて」と”信じている”者にしか疑えない”正義”がある。
つねに”他者”であるからこそわかる”嘘”がある。 

「知っている」とは何なのか?

誰が書いていたろう?
周囲から観察すればただ横たわり眠っているだけの老人が、
脳内では虹色の空を自身の脚で駆け回っている。

「知っている」とは何なのか?

幽霊はいない。
そして幽霊はいる。
誰のことかわかる?




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