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新しい宗教を創ろう #7

 仏教に十界という概念がある。生命の状態を分類するもので、最底辺が地獄、すこし這い上がって餓鬼、浅ましき畜生、驕れる修羅、平常な心身としての人、喜びの天、これより先は仏教の深部へ突入して声聞、縁覚、菩薩、そして仏を頂点とする。
 地獄から天までを六道と言って、普通、人間はこの6つの混沌に溺れている。つねにどれかひとつの状態にあるわけではなく、平穏の内に憎しみが、歓喜の裏に絶望が併存していて、悲しみも笑顔も、不満も充足も、外界からの刺激によってたまたま表出しているのであって、決して打ち消されているわけではない。
 宗教用語をそのまま受容するかどうかはお好み次第として、私はこの構造を事実であると考えている。
 そうしてこの事実は、ひとつの安らぎを与えてくれる。たとえ今がどれだけの怒りに苛まれていようと、拭えない悲しみに浸されていようと、「野郎ぶち殺してやる」と歯軋りしながらそれでも慈しみの泉は枯れてはいなくて、「もう死ぬしかない」と途方に暮れながらも夕暮れの空の美しさを喜ぶことはできる。

 さて、ここまでに書いた十界の概念はかなり単純化したもので、実際にはもっと複雑に人間の心理を描いている、ようなのだけれどほんとのところ、私はほとんど理解していない。なので別のベクトルへ逃亡しよう。

 六道の表出は機会次第であり、つまり「縁」に因っている。散歩道で穏やかな風に当たれば穏やかになれるし、酷い災害の渦中にあれば恐怖に囲まれる。たとえば誰かの失敗に接してすぐに怒る人は一方的な批判に慣れていて、多勢に無勢という状況に同調し易いこのようなタイプは周囲に似たような者が多ければそれだけ指数関数的に炎を広げてしまい、批判にあたっては先ず己の正しさを問う、という最低限の営為すらも忘れてしまう。けれど怒らずにその失敗を慰めてあげられる菩薩のような人が先頭にいれば、周りもそれに従って心静かにいられる可能性は高まり、ほんとうの問題はどこにあるのかを真摯に捜すことも出来る。失敗と間違いは別のものである、ということも理解せずに他者を責める者は、その正しさが間違いであると知らない。罪の無い者だけが石を投げよ。

 自身の感情は自身のみで操作できはしない。いつでも菩薩のような人が傍にいてくれるわけではないし、嫌なことばかりの中で暮らしていかなければならない日々もある。会いたくない人にも会わなければならない。自分も不機嫌に、不安に、不愉快になってしまう。そんな環境の中で、それでも自分自身の意志だけで心を輝かしていくことはとても、とても難しい。私にはまず無理だ。「人間の鑑」という時はいわゆる人格者を意味するが、人間を「鏡」とする時、相手が汚れていれば自分も汚れてしまうこともある。
 そんな時のために、音楽がある。小説が、映画がある。お笑い番組でも、スポーツ観戦でも。キャンプでも模型造りでも。なんなら最近流行りの出会い系だって別に構わない。酒に溺れる時があっても良いだろう。それでどうにか日々を生きられるなら。
 あくまで其のひといち個人の価値観の内に限定するなら、宗教もここに肩を並べる。ギターの音に励まされ、小説の言葉を信条にして、映画を通して広い世界を旅する。時にみんなで笑いあい、あるいは情熱を滾らせて、自然へと耳を澄ませ、構造物を理解する。出会いが出会いを呼び、時に戸惑うこともある。これらすべての要素は、宗教の基本形だ。
 綺麗なものを鏡にしたい。

 さらに逆の方向から考えると、他の何かでは補えない、宗教の不思議な必要性が滲んでくる。
 宗教団体に具体的に関係したことがある方々ならおそらく実感していることとして、信仰しているわりには暴力的だったりする人物もたまにいる。まぁ聖職者の性犯罪なんて昔からあることなのでそれを例に出しても良いけれど、当然ながら宗教は、人間をまるで人間では無いものであるかのように罪を消し去るものではない。というか犯罪を誘発することさえある。その上でなお特別な必要性がある点として、「もともとヤバイやつがややマシになる」という効果がある。
 どんな宗教にも聖典を覚えて勉強したり、それを唱えたりする過程がある。たいていの場合はここで何らかの閃きを得てのめり込んでいく。聖典は鑑であり鏡と成り得る最重要のもので、たとえば酷い怒りに囚われた際に周囲に当たり散らしたくなったとして、どうやら自分を止めてくれそうな奴もいない、そんな時、記憶の中の聖典と向き合うと、その衝動を止められる可能性がある。
 聖典は脳みそひとつでどこへでも持ち運ぶことが出来る。そしてその鏡はつねに自身があるべき理想を照らし返してくれる。いつでも正しく、そして忍耐強く信徒と寄り添うなんて、よっぽどの人物でないと不可能だ。けれど聖典にはそれが出来る。歌手の書いたコードでも無ければ映画監督の発想の世界でもなく、人間のあらゆる活動やこの世界の法則さえ超えた、神の言葉・神についての物語が聖典であり、こんなものは宗教からしか誕生しない。聖書あたりはたまに勘違いされているけれど、聖典は倫理に関する単なるルールブックでは無い(なので場合によっては逆効果もある)。とはいえ、この積み重ねで、人格は少しずつ変化していく。つまり、ややマシになる。

 ほんとのこと言うと、私もそのひとりだ。
 今は特定の信仰を持たないし、そもそも思想信条なんてものに関心を持たなければもっと明るい生き方があったようにも考えられるけれど、そうしてたくさんの失敗を積み重ねたうえではあるけれど、人を傷つけて平気な顔して笑ってるような人間にならなかったのは、宗教に触れてきた日々のおかげであるような気がしている。

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