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道徳と保護と保全

Twitterの一部界隈で騒がれている事件がある。重い病を患った猫を自然にかえしたという話である。

逃した側の主張は、「余命少ないこの子は人に酷く怯え、餌も食べない。そうならば元の自然にかえして人の恐怖から遠ざけたい。」

それを批判する人の主張は「ただ見たくないだけでは?」「生きていけるわけがない。」「愛護法違反では?」

その猫にとって何が幸せなのか、それを一概に人が決めつけることは罪深いと感じる。だから私は猫にとって何が良かったかは論じることは控えたい。

法律に抵触するのでは、というのも、無知であるため実際どうなのかはわからないが、現在の野良猫文化を反映すると法律的処分は難しいように思える。

ただ同じ人間、この場合猫を逃した人だが、その方の心情を妄想すると、「自分が猫にとって脅威的な存在と思われたくなかった」のではないだろうか。野良生活というのは非常にストレスがたまる。病気にも当然罹りやすく、余命も少ない。だからこそ彼らは保護しているのに、「人が怖いなら」と理由で放してしまった。猫にとっての幸せを考えた際に「保護」を選んだ人間が、「怯えて餌も食べない」「余命も残りわずか」という理由で、猫を自然に放してしまうのはどうも矛盾を感じる。この矛盾の解消に「猫の幸せ」という曖昧なものを使っているような気がしてならないのだ。

「自分が絶対的な正義でいたいというエゴ」がみえてしまったような気がした。これは捻くれた見方なのだろうか。

ちなみに猫は「侵略的外来生物」に指定されている。猫を外に放つというのは、ミドリガメやアメリカザリガニを外に逃すようなものとされている。その他侵略的外来生物と同じように野良猫は殺処分が妥当なのかもしれないが、世論感情がそれを許さないだろう。どうかいつか全ての猫が保護されて欲しい。野良猫文化が廃れ、逃す奴には罰が与えられる世の中になってほしい。

補足:猫は好きです。できれば殺処分されて欲しくないです。しかし私は世論感情で殺処分がしょうがないとされるミドリガメ(ミシシッピアカミミガメ)もワニガメもいろんな生き物が同じように好きで、本当は殺処分されて欲しくないです。しかし、それを突き通せば、今度は私の好きな在来生物たちの脅威になってしまうのです。侵略的外来生物たちに罪はないです。悪いのは全て放した人間たちです。個人的には人も自然の一部と考えているため、人がしてきた全ての行いが不自然とはおもいません。しかしまだまだ未知の多い複雑な生態系を崩して困るのは人間側です。そうならないために生態系の保全活動を行うのだとおもいます。保全活動というのは結局かわいいというエゴか、将来人間が困るかもしれないというエゴ、全てエゴでしかないのだと現段階では考えています。


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