ギターと散歩 メキシコ編
1. ラテン気質?
日本からの観光旅行の帰りだと言う,陽気なメキシコ人の一団から拍手が起こった.何事かと言うと,飛行機が無事メキシコ・シティ国際空港に着陸したからである.1980年8月,筆者にとって,メキシコは初めての海外旅行の地で思い出深い.今思うと,大変だっただろうと思うが,スチュワーデス(当時の呼び方)さんが,振袖姿にお色直ししてサービスしてくれた.どこでどのようにして振袖に着替えられたかわからないが,今では,おそらくハラスメント(パワハラ,セクハラ?)として,訴えられるだろう.アルコール類は,お金(ドル)を払ったように思う.エコノミークラスながら,キャビアが出てきたのを覚えている.メキシコ・シティは緯度的には亜熱帯に属しているが,2,240メートルの高地にあり空気が乾燥して涼しく感じられる.地下鉄は非常に静か,と言うのは,車輪にゴムが使われているからである.駅名の他に駅の特徴を示す絵が書いてある.これは,文字が読めない人の為だそうで,外国人にはありがたい.以下は,メキシコでの印象に残る出来事である.メキシコ・シティでは,観光タクシーを利用しピラミッド,闘牛などを見物した.途中,おきまりのお土産屋に立ち寄るのだが,「トモダチ!」,「サムライ!」などと言って大歓迎.ここでの値段の交渉が面白い.売り手の言い値の,まず半値くらいから交渉が始まる.折り合いがつかないので,帰ろうとすると,引き止めにかかる.それでも折り合いがつかないと,コインを投げて,裏表を当てた方の言い値でどうだ?といった具合である.我々日本人一同は,観光タクシーの運転手さんが気に入ったので,明日も案内をしてくれないかと頼むと,運転手さんはなんと答えたでしょうか? 彼は,「今日,十分儲けたので,明日はやりたくない」.これには,我々日本人一同,びっくり!この話は,拙著[1]にも紹介したが,今でも色々と考えさせられる.ラテン気質といった皮相な一元的なくくりで捉えるべきではないとは思うが,人生において働くことの意味なども含め,時折,この話を思い出す.
YouTubeにアップしたのは,その時(1980年)の写真である.銀塩カメラで撮影し,カラースライドから起こしたもので,特にメキシコ国立自治大学の壁画はクリアでない.岡本太郎は,メキシコの壁画に影響を受けていると言われ,特に作者の一人であるシケイロスと親交があった.BGMは,メキシコの作曲家として有名なポンセで,ギター曲としても有名なエストレリータ.エストレリータ(小さな星)・・・降りてきて私に伝えて 彼の気持ちを,といった甘い恋の歌,エストレリータは,小さな星というより「小さなお星様」のほうが良いかな.ヤマハサイレントギターで演奏,録音.
2. メキシコにもある野口英世の銅像
黄熱病を研究していた野口英世が,黄熱病で西アフリカ黄金海岸(現在のガーナ共和国)で亡くなったことはよく知られている.野口英世は,アフリカだけでなくメキシコとの関係も深い.西アフリカに派遣される少し前の1919年(大正8年)12月から約3ヶ月間,黄熱病の研究と撲滅のためロックフェラー医学研究所からメキシコ(ユカタン州メリダ市)へ派遣されている.野口英世は語学の才があり,渡航中の船内や長距離の列車内で乗客から外国語を覚えたという.メキシコでもスペイン語を巧みに操り,現地の医師の指導に当たっていたそうである.メリダ市オーラン病院(現在はユカタン自治大学)の正門,時計塔の前庭に野口英世の銅像が立てられている(写真参照).銅像は玉川学園関係者による寄付によるもので,1961年(昭和36年)にオーラン病院で銅像の除幕式が行われている.銅像が送られた経緯については[2]に詳しい.野口英世は身長153cmで小柄であるが,この銅像を見た人は一様に,「思ったより小さいなと感じた」と言っている.それもそのはずで,日本からプロペラ機で銅像を運ぶために,等身大の銅像ではなく小ぶりな銅像として作製されたのである.銅像の作者は,多摩美術大学教授で日本芸術院会員の吉田三郎である.筆者が撮影したのは1980年(昭和55年)で,20年近くの歳月を経ており,銅像の本体・銘板も少し傷んでいたように思う.
3. メキシコには野口英世の銅像が二つあった
筆者が撮影したのは銅像のオリジナルで,これとは別に2008年頃に作製されたレプリカがあった.その経緯を[2]より抜粋するが,( )は筆者の追記である.1961年の銅像除幕式へ招待されたのは,玉川学園の生徒で結成された日本・メキシコ親善使節団である.その一員であった方が,定年退職しメリダを再訪した.帰国後,「(除幕式が行われた場所に)ちゃんと(野口英世の)銅像がありましたが,大分古くなっていて,銘板の字も読みづらくなっているので何とかしてもらえませんか?」と玉川学園の理事長にお願いしたそうである.それに答えて,玉川学園創立80周年(2009年)の国際貢献事業の一つとして銅像の調査・修復が計画された.銅像の調査の過程で,銅像はオーラン病院の建物も含めてメキシコの文化財に登録されており,修復には文化庁の許可が必要であることがわかってきた.また,野口英世の銅像がもう一つあることも判明した.それはレプリカで,オーラン病院の正門から南に300m程の距離にある野口英世地域研究センターCentro de Investigaciones Regionales Dr. Hideyo Noguchi(ユカタン州立自治大学)にあった.この研究センターが創設された時に,野口英世博士の名前を掲げている研究センターなので,オーラン病院の正門前にある銅像を貰えないかとユカタン州に交渉したそうである.「文化財として大事な物なのであげられないが,その代わりにレプリカを作っても良いですよ」,ということで2008年頃に製作されたものである.かくして,メリダ市のユカタン自治大学には,オリジナルの銅像とレプリカの銅像があるのである.オリジナルの銅像の銘板と台座の修復に加えて,レプリカの修復にも玉川学園が援助している[2].[3]には,オリジナルとレプリカの両方の写真(2020年1月28日付け)がアップされており,オリジナルとレプリカで顔がだいぶ違うようだと指摘されている.1980年(昭和55年)に,筆者が撮影した写真では,ブロンズ像で,約20年を経過して特有の緑青が見られた.ところが,2020年の最近の写真[3]では,銅像の全体が黒光りして,顔の表情もだいぶ違うように見える.2016年の写真[4]は,銘板と台座は新しく綺麗になっているが,銅像の本体は1980年に筆者が撮影したものに近い.オリジナルの銅像は文化財なので本体の修復はできないとされているが,銅像の本体にも修復が加えられているのではないかと思うのだが・・・ 野口英世地域研究センターから北北西約3Kmユカタン自治大学の新キャンパスに,地域研究センター付属と思われる新しい生物医学関係の研究施設が作られている.この研究施設にもDr. Hideyo Noguchiの名前が付けられており,ユカタン州メリダ市にとって野口英世の貢献は,日本人が思っている以上に大きいようである.
メキシコ以外では,黄熱病で亡くなった西アフリカ黄金海岸(現在のガーナ共和国)アクラのガーナ大学医学部付属病院に胸像がある.さらには,ロックフェラー大学の図書館入り口にも,ロックフェラーI世と一族の胸像とともに野口英世の胸像がある.これは,ロシア人彫刻家カニョンコフ(カネンコフ)による.この銅像は,野口英世が西アフリカへ出発する前に,ロックフェラー医学研究所のリーという同僚に勧められたものである.野口英世自身は乗り気ではなかったようであるが,同僚の勧めにまけてモデルとなった.その際「少しきりっとしたきつい顔にしてくれるよう頼んでくれ」と言っている[5].そのせいか,少し日本人離れした風貌になっているように思う.福島県の猪苗代町にある野口英世記念館にも,ロックフェラー財団から贈られたカニョンコフ作の胸像がある.
4. 上野公園の野口英世博士とボードワン博士の像
野口英世博士の銅像は,生まれ故郷の福島県はもちろんであるが,日本各地にある.野口英世記念館内には,野口英世の銅像や胸像,モニュメントの所在地一覧表が掲示されており,163ヵ所もある[6].西郷隆盛の銅像ほどは有名ではないが,上野公園(上野恩賜公園)にも野口英世の銅像がある.大噴水と国立科学博物館との間の木々の中に立っている.白衣をまとい,試験管を持つ右手を高く掲げている.火傷した左手の半分くらいはポケットに入れられている(写真参照).1951年(昭和26)年3月,建立.石台を含み高さは4.5メートルあり,メキシコに贈られた銅像と比べ物にならないくらい大きい.作者は,メキシコに贈られた銅像の作者である多摩美術大学教授/吉田三郎である.台座にはラテン語で,「PRO BONO HUMANI GENERIS (人類の幸福のために)」と刻まれている.野口英世が務めていたロックフェラー医学研究所は,現在ロックフェラー大学になっているが,この大学のモットーが「Scientia pro bono humani generis」である.Scientiaは後に付け加えられたのではないかと言われている[7].なお,BONOが,BORNあるいはBOMBになっている間違いがウエブ上にみられる.銅像の右下の小さな石碑には糸車が刻まれている.糸車は,野口英世の生家にあったものからイメージされたものではないかと思われる.糸車は,新宿にあった野口英世記念会館に展示されていた.野口英世記念会館は2011年(平成23年)年3月31日に閉館になり,糸車は,生まれ故郷の福島県野口英世記念館にあるのだろう(改装後の記念館を訪問していないので未確認).
吉田三郎の手になる銅像が,新宿にある野口英世記念会館にもあった.しかし,この記念会館は閉館になり,銅像も一時行方不明になっていた.現在,この銅像は,生まれ故郷の福島県野口英世記念館にある.その他に,吉田三郎の手になる銅像(1955年製作)が,大阪の箕面にもある.野口英世は1900年(明治33)に渡米して以来,1928年(昭和3年)アフリカで亡くなるまで一度だけ日本に帰国(1915年)している.帰国した際,日本各地で講演会,歓迎会が開かれ,そのひとつが母シカを伴っての大阪の箕面への旅であった.箕面の料亭「琴の家」での英世の母に対する孝行ぶりに感激した関係者の尽力によって建立された銅像である.大阪の箕面にある銅像についての詳細は,渡辺淳一「遠き落日」[5]と[8]の箕面に野口英世の像 芸妓「泣かせた」親孝行,を参照してもらいたい.年老いた母といわれたシカはこの時62歳で,3年後スペイン風邪で亡くなっている.野口英世が日本に帰国するきっかけになった一つが,母の手紙だと言われている.その手紙は,誤字脱字の多い漢字,ひらかな,カタカナ混じりで,たどたどしい字の手紙であった.読み書きの殆どできない母シカが,近所の住職に習って一生懸命書いた手紙である.母は字が書けないと思っていた野口英世ならずとも,その手紙を読んだ人は心を打たれるだろう.「遠き落日」の,野口英世が帰国後,母シカとの再会の場面の描写には目頭が熱くなる.
ボードワン博士の胸像
上野公園にあって,野口英世の銅像以上に,知られていないのがボードワン(ボードウィンが正しい表記と言われる)の胸像である.しかし,この人こそ,上野公園の像とするにふさわしい人物である.ボードワン博士の胸像は,大噴水と東京都美術館との間の木々の中にある.大噴水を挟んで,野口英世の銅像と少し斜めであるが,向き合うようになっている.上野公園が誕生した経緯には,戊辰戦争のひとつである上野戦争(1868年;慶応4年)が関係している.旧幕府勢力(彰義隊)が立てこもったのが,徳川将軍家の菩提寺である寛永寺である.この戦争で寛永寺は主要な伽藍を焼失,壊滅的な打撃を受け一帯は焼け野原となってしまった.現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内で,焼け野原となった跡地に御徒町にあった大学東校(東大医学部の前身)と付属病院が移転する計画があった.しかし,ここを視察した蘭医ボードワンは自然が失われることを危惧し,政府に保存を提言した.そもそも,当時「公園」という言葉がなかった時代で,明治政府の英断だと思うが,大学の移転先は上野ではなく本郷に決まった.1873年(明治6年)に日本初の公園に指定された上野の森は,西洋式公園として保存・整備されることになり,ボードワン博士は上野公園生みの親と称されている.
上野の山に予定通り大学東校と付属病院ができていたら,ちょうど本郷東大とその周辺のようになり,上野公園はもちろん当時寛永寺の下寺跡地であった上野駅もなく,現在のような上野の街の発展はありえなかったのである.上野観光連盟は,上野繁昌史を編纂するにあたり,ボードワン博士の功績を確認し,誰よりも先に顕彰するべきであることを決定した[9].1973年(昭和48年)上野公園開園百年を記念して,東京都,台東区,上野観光連盟,さらにオランダ大使館に協力を要請し博士の胸像を上野公園に建立した.胸像の作者はオランダの有名な彫塑家マリ・アンドリッセンである.マリ・アンドリッセンは,アムステルダムのアンネの家近くの西教会そばにあるアンネの銅像の作者としても有名である[1].
ところが,この話はこれで落着したわけではなかった.なんと,胸像のモデルはボードワン博士ではなく,立派な髭をたくわえた彼の弟(オランダの駐日領事)であった.胸像を造る時に作者に渡された写真が間違っていたそうである.2006年(平成18年)10月に新しく作り直されたのが,現在の胸像である.新しい像は,彫刻家林昭三の原型製作による[10].台座の後面には,東京都,台東区,上野観光連盟,オランダ大使館,一九七三年十月と刻まれている.さらに,その下に付け加えるようにして,東京都,台東区,上野観光連盟,オランダ大使館,そして新たに大阪市 法性寺,二00六年十月が刻まれている(写真参照).これは,筆者にとって大発見であった.法性寺(ほっしょうじ)は,大阪市中央区中寺にあり,ボードワン博士が一時的に身を寄せていた日蓮宗のお寺である.日本に初めて検眼鏡を導入したのがボードワン博士で,彼が日本に持ってきた健胃剤の処方が太田胃散,守田宝丹のもとになっている[11].
5. 野口英世について
千円札に描かれている肖像画は,誰でしょう? 答えは,もちろん野口英世である.しかし,正確に答えられる人が次第に少なくなってきているようである.入学試験の面接官をしていた経験からも,医学を志す受験生でもその傾向にあると言える.この傾向に追い討ち?をかけるように,千円券表の肖像画は,2024年度に野口英世から恩師で細菌学者の北里柴三郎に引き継がれることが決まっている.2004年(平成16年)11月1日のE号千円券発行当日には野口英世の生まれ故郷の福島県猪苗代町では提灯行列が繰り広げられた.猪苗代町の野口英世記念館には,日銀の貨幣博物館に続いて番号が若い「A000002A」の2番券が贈られている[12].当時の塩川正十郎財務相によると,細菌学者,野口英世を選んだのは「日本の科学技術を世界にアピールする狙いだ」という.野口英世は三度もノーベル賞候補に挙げられたように,世界的な学者ではあった.「ではあった」と言うのは,彼の研究成果の多くが誤りであったことが後にわかったからである.小学生時代,野口英世の偉人伝を読んで,野口英世に憧れた者にとって,わずかに慰めになる業績がある.それは,1913年 梅毒スピロヘータ(トリポネーマ・パリドウム)を麻痺性痴呆患者の脳と脊髄癆患者の脊髄の病理組織において発見し,この病気が梅毒の進行した形であることを証明した研究である.野口英世は,高等小学校を卒業して上京し済生学舎(日本医科大学の前身)に通い,醫術開業試験に合格して医師となった.余談であるが,野口英世の醫術開業免狀に福島縣平民と書いてあるのには驚いた.筆者の世代の人間には,野口英世は貧しい家に生まれ,左手は火傷をおうというハンディキャップにもめげず,努力と周囲の人々の金銭的援助により学問に励み,功成り名遂げた偉人である.さらに母親孝行と言うイメージも加わる.しかし,渡辺淳一「遠き落日」を読むと,そのイメージが一変してしまう.どうみても「偉人」とは言えない.借金の天才,浪費癖,それも尋常ではない.生活人としては一種の失格者であったとされる.「異人」もしくは「奇人」の部類に入る[13,14].野口英世に憧れた者にとって,「遠き落日」には,もう勘弁して!と言いたくなる話が多い.しかし,歳を重ねてくると,これも人間,野口英世なのだと思えるようになってきたのである.
[1]穐田真澄 ギターと散歩 ーよこ道,より道,まわり道ー, 2020年,ブイツーソリューション.
[2]内閣府 海を越え,時を越える,野口英世博士 ~メキシコに存在する2つの野口英世博士像と日・メキシコ親善~ https://www.cao.go.jp/noguchisho/info/interviewmrhirata.html
[3]【メキシコ】メリダで野口英世像を探せ!(2020年1月28日) https://watarigarasu.net/2020/01/29/merida_noguchi/
[4]メキシコ7日間 6つの世界遺産 ①テオティワカン ②ウシュマル ③チチェンイツァほか https://4travel.jp/travelogue/11631671
[5]渡辺淳一「遠き落日」下, 1990年, 角川文庫.
[6]野口英世博士の生家,記念館 http://www.aizue.net/sityouson/inawasirophoto/miru-nogutikinenkan.html
[7]野口英世像のラテン語 http://toxa.cocolog-nifty.com/phonetika/2009/10/post-6394.html
[8]箕面に野口英世の像 芸妓「泣かせた」親孝行 https://mainichi.jp/articles/20161204/ddl/k27/040/240000c
[9]上野恩賜公園開園百年 https://ueno.or.jp/history/history_02.html
[10]アントニウス・ボードウィン http://kendouzou.blog115.fc2.com/blog-entry-32.html?sp
[11]https://ja.wikipedia.org/wiki/アントニウス・ボードウィン
[12]【平成16年】千円札に野口英世 医聖に再び脚光...『帰郷』祝う猪苗代町 https://www.minyu-net.com/serial/heisei/FM20190420-370683.php
[13]渡辺淳一「遠き落日」上・下 1990年, 角川文庫.
[14]野口英世の「偉人になるための虚構の実学」 http://meiso22.nobody.jp/meiso14-52.html