ギターと散歩 トルコ編
1. タレガのアラビア風奇想曲
イスタンブールに世界的に有名なモスクが二つある.その一つが冒頭の写真のブルーモスクで,6本のミナレット(尖塔)を持っている.ミナレットから,1日5回,イスラム教における礼拝の呼びかけであるアザーンが流れる.これにヒントを得たのが,タレガのアラビア風奇想曲の独特な出だしだと言う記事を読んだことがある.しかし,これがどこに書いてあったのか調べているが見つからない.どなたかご存知の方があったら教えていただきたい.アラビア風奇想曲は人気のある曲で,昔ギター青年(私のこと)の憧れの曲であった.何度か挫折し,やっとこぎつけたのでトルコ旅行で撮影した写真のBGMとしてYouTubeにアップした.人気のある曲で,たくさんのギタリストによる演奏がネット上にある.内外のギタリストの演奏に対して,色々とコメントが寄せられている.例えば,多くの人が,バリオスのフリアフロリダ(舟歌)みたいな感じで演奏しているとか.テンポは,andante よりやや速くというandantinoが指定されているが,ゆっくり目の演奏が多い,などなど.本邦のギタリストの演奏と比べると,欧米のギタリストによる演奏は概してテンポが早い,そして,あまり情緒的ではなくむしろ素っ気なく感じる演奏もある.本邦のギタリストの演奏を演歌的と評している方もある.私には,ややゆっくりめで,情緒的なほうが好みなのでお許し願いたい.
2. アヤソフィア(ハギア・ソフィア)
ブルーモスクと並んで有名なモスクが,ビザンティン建築の傑作といわれるアヤソフィアである(写真左参照:4本の尖塔はオスマン帝国時代に付け加えられた).アヤソフィアは,キリスト教徒とイスラム教徒の両者にとって重要な建物である.537年に東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都であるコンスタンティノープルにキリスト教(正教会,ギリシア正教)の大聖堂(ハギア・ソフィア)として建てられた.1204年,コンスタンティノープルは,第4回十字軍に攻められ占領されてしまう.ギリシア人の東ローマ皇帝はニカイア(現在のトルコ共和国イズニク,陶器,タイルで有名)に亡命した.ニカイアだけでなく東ローマ帝国側は旧帝国領の各地に亡命政権を建てて抵抗することとなった.第4回十字軍は,略奪・殺戮の限りを尽くし,最も悪名高い十字軍として知られる.フランスの諸侯・騎士を中心に編成され,兵士と食料を含む資材の海上輸送をヴェネツィアが請け負った.大聖堂に立てこもった聖職者,修道士,修道女だけでなく市民も暴行・殺戮を受けた.さらに,市街地だけでなく大聖堂や修道院でも略奪が行われ,貴重な品々は持ち去られるか,持ち帰れないものは破壊された.かくして,コンスタンティノープルは,1204年から1261年まで十字軍騎士たちによって建設された十字軍国家の一つであるラテン帝国(ロマニア帝国)に支配され,ローマ・カトリック教の影響下に置かれた.ギリシア正教を否定し,大聖堂はローマ・カトリックの大聖堂とされた.1261年,ニカイアに亡命していた勢力(ニカイア帝国)がコンスタンチノープルを奪還し,東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が復活した.復活した東ローマ帝国であるが,内乱などにより領土は首都コンスタンチノープル近郊とギリシアのごく一部のみに縮小し,徐々に衰退していった.1453年4月にオスマン帝国の大軍勢にコンスタンチノープルは包囲され,5月にはコンスタンチノープルは陥落した.これで,東ローマ帝国は完全に滅亡した.オスマン帝国の支配下でコンスタンティノープルはイスタンブールと改称され,キリスト教の大聖堂もイスラム教のモスク(アヤソフィア)に改修されてしまった.礼拝への誘いを肉声で呼びかけるための4本の尖塔(ミナレット)も新たに造られた(写真左参照).キリスト教の聖像は取り除かれ,メッカに向かって礼拝するため,内壁にメッカの方向を示すミフラーブ(アーチ型の装飾が施されている聖龕)がつくられた(写真中央参照).第一次世界大戦でオスマン帝国は敗戦国となって滅び,代わって政教分離を原則とする世俗主義的なトルコ共和国が建国された(1923年).初代大統領が「トルコ人の父」を意味する称号を持つアタチュルクである.トルコ共和国政府が1935年2月1日,アヤソフィアをモスクではなく博物館とすることにより,アヤソフィアは礼拝を行う宗教的な建物ではなくなった.イスラム教は偶像崇拝を禁じているため,オスマン帝国に征服されていた時代のアヤソフィアでは,キリスト教関係のモザイク壁画は漆喰で塗り込められ外から見えないようにされていた.博物館となったことから,漆喰の一部が剥がされ,東ローマ帝国時代のキリスト教関係のモザイク壁画が再び表に現れた(写真右参照).アヤソフィアはイスラム教の礼拝を行う場所であるモスクとしてではなく,博物館として2020年7月まで利用されてきた.ところが,2020年7月10日,第12代エルドアン大統領が,このアヤソフィアをイスラム教の礼拝を行う場所であるモスクに変更すると発表した.イスラム教徒が大半を占める国内では,歓迎の声があがる一方,キリスト教文化圏からは批判が噴出している.特に,ギリシアは強く反発,非難している.トルコとギリシアが犬猿の仲なのは有名で,「紀元前からの犬猿の仲」などとも言われている.本当に仲が悪いのだと実感したのは,初代大統領アタチュルクの名を冠したアタチュルク国際空港での出来事である.ギリシア人の場合,出国時にパスポートの審査官からパスポートが投げ返されていたのを何度か目撃したことがある.どこでも,隣国だから仲がいいとは限らないようで,むしろ逆な方が多いようである.
3. トルコが親日的といわれる理由と東郷平八郎
ボスポラス海峡にかかるヨーロッパとアジアを結ぶ橋(第2ボスポラス橋:1988年完成)だけでなくボスポラス海峡を横断する海底鉄道トンネル(マルマライ:2013年完成)も日本政府と日本の企業の援助によるものである.トルコと日本は良好な関係があることがわかるが,最近では韓国の進出が目立っている.トルコが親日的と言われるのには,随分昔の出来事が関係している.その一つが1890年(明治23年)のエルトゥールル号遭難事件である.これは,オスマン帝国親善使節団一行が明治天皇に謁見するため1890年に日本を訪問.その帰路,和歌山県串本町大島樫野崎沖で一行が乗ったフリゲート艦とはいえ木造船エルトゥールル号が遭難し,乗員587名が死亡するという大惨事である.生存者はわずか69名であったが,これは地元の人達の懸命な救助活動と手厚い看護によるものである.手厚い看護のあと比叡,金剛の軍艦2隻で生存者をイスタンブールまで送り届けたのである.また,多くの義援金や物資が日本各地から集まった.この事件は,「海難1890」として日本とトルコの合作で映画化されている.オスマン帝国親善使節団来日の目的は,ヨーロッパ列強との不平等条約に苦しんでいたオスマン帝国の皇帝が,明治維新後同様の立場にあった日本との平等条約締結の促進と,1887年(明治20年)の小松宮彰仁親王殿下のトルコ訪問に対する返礼などが目的であった[1].そして,親善使節団の派遣とエルトゥールル号遭難から約100年後の1985年のことである.トルコ政府はイラン・イラク戦争勃発時にイランに取り残されていた215名の日本人をエルトゥールル号の恩返しとして,救護機を派遣して日本人を救出してくれたのである.なお,1894年に始まった日露戦争で日本がロシアに勝利したことも,親日感情に拍車をかけることになったという.当時,トルコ(オスマン帝国)はロシア帝国から圧力を受け,常に脅威にさらされていたのである.日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎提督(元帥海軍大将)は大人気となり,その年に生まれた男の子に「トーゴー」と命名する家庭もあったといわれている.この話に加えて,イスタンブールには“トーゴー通り”がある.トーゴの名を冠した靴も人気があった.かつては“トーゴー・ビール”もあった.などなど,真偽は定かではないような話もある.
[1]トルコとの交流 ~エルトゥールル号の遭難~ 和歌山県東牟婁郡串本町HP
4. “トーゴー・ビール”は都市伝説の幻(まぼろし)か?
日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎が,トルコで人気となったことは事実のようである.フィンランドに関しても我が国には以下のような似た話がある.トルコと同様に,大国のロシアの干渉に苦しんでいたフィンランドも日本の勝利を喜んだという話である.さらには,日本の勝利が1917年のフィンランド独立に貢献し,東郷平八郎はフィンランド独立の恩人である.「日露戦争を記念してトーゴー・ビールが作られた」なんていう都市伝説とされているような話まである.これに対して,フィンランド独立に貢献したなどの話は間違いであり,「トーゴー・ビール」なるものは存在しないと断定している記事もある.しかし,幻(まぼろし)ではなく,筆者は,フィンランドのヘルシンキで「トーゴー・ビール」を1984年8月に見たのである.正しくは,ラベルに東郷平八郎が描かれた瓶ビールを見たのである.調べてみると,「東郷提督の肖像をラベルにしたビール」がフィンランドに存在したのは事実である.しかし,それは「トーゴー・ビール」ではなく,「Amiraali(アミラーリ,「提督」の意味)ビール」という,世界各国の有名な提督(当初は6名が選ばれ,のちに24名となる)の肖像がラベルになったビールで,そのひとつが東郷提督の肖像をラベルにしたビールである.Amiraaliビールは,1970年からフィンランド・タンペレ市のPyynikki(ピューニッキ)社が製造・販売していたが,Pyynikki社は倒産してSinebrychoff(シネブリコフ)社に吸収され,Amiraaliのブランドも受け継がれたものの,1992年についに製造中止となっている[1].その後,フィンランドではAmiraaliビールは復活したが,ほんのわずかな期間販売されただけで消えてしまったようである.しかし,日本ではAmiraaliビールと同じ東郷提督の肖像のラベルがオランダ製のビール(ハイネッケン)に貼られ販売されていたこともある.現在は,日本ビール株式会社で生産されており,ネット販売もされている.記念艦「三笠」と東郷元帥の銅像がある横須賀の三笠公園の売店では,おみやげとして売られている.「東郷焼酎」,「東郷せんべい (6枚入と12枚入り)」もある.東郷平八郎が舞鶴鎮守府初代司令長官でもあった関係からか,舞鶴の洋酒の佐藤では,バラ売りもしている(一本400円).緑色の瓶から,現在,茶色の瓶に変更されている.日本ビール株式会社では,Amiraaliビールのラベルとは違うラベルで「東郷平八郎ビール」として黒ビールも販売されている.福岡県の福津市にある東郷神社の授与品として「東郷麦酒」があったが,現在はないようである.
「フィンランドはロシアを日露戦争で破った日本に対して親日的で,特に”日本海海戦”で連合艦隊を率いた東郷元帥を称えて『東郷ビール』をつくった」というような話がなぜ広まったのだろうか? [2]を参照していただければ,その謎が解ける.要約すると,1983年,東京ーヘルシンキ間の空路の開通に尽力した佐藤文生(第2次中曽根内閣の郵政大臣)へのおもてなしの席で,東郷平八郎ラベルのビールが振る舞われた.そのビールをお土産として日本に持ち帰った翌1984年が,ちょうど東郷平八郎没後50年にあたっていた.佐藤氏と中曽根康弘総理の間で,東郷平八郎没後50年の記念式典に,フィンランド大使を招待しようという話が持ち上がった.当然,ソ連からは日露戦争勝者側の大将を記念する式典に出席することに対して苦情がでる.フィンランド大使館側では,ソ連との外交を考慮して,大使ではなく,別の人を派遣した.その派遣された人物が式典で,対馬の海戦(日本海海戦)がロシア帝国が崩壊の過程の発端となった,そして日本海海戦を指揮した東郷への感謝を述べた.このロシア崩壊がフィンランドを独立へ導いたとも述べた[2].これらは,おそらく日本に対するリップサービスだったのだろうが,1997年10月6日の朝日新聞・天声人語にも,フィンランドのソルサ(Kalevi Sorsa)元首相がシンポジウム「新時代のきずな:日本とEU」で上記の記念式典と同様な内容の話をしたとある[1].この他にも同じような趣旨の話が,夕刊フジやSAPIOという雑誌にも紹介され[3, 4],都市伝説のような話が出来上がったものと思われる.
なお,ヘルシンキでラベルに東郷平八郎が描かれた瓶ビールを見たのであるが,残念ながら飲んではいない.アルコール度数の違いでビールも4段階ぐらいに分かれていたように思う.アルコール度数の低いビールはスーパーで購入できるが,度数の高いものは,酒屋で買うかレストラン,バーでしか飲むことができない.1984年8月にヘルシンキのレストランで,ワインを注文したら,12時以降でないと提供できない,午前中はダメだと言われたことがある.このように,アルコール類に対する規制が強い.1983-84年は筆者がベルリンに留学していた頃で,私と研究室で同室になったのが奇しくもフィンランド人であった.フィンランドは森と湖の国で,「スオミ」というのを高校時代に地理で習った記憶があった.そこで,初対面であなたのお国は「スオミ」と言うんでしょう,と言ったところ,どうして知ってるの!と非常に驚かれた.それ以来ずっと親しくさせてもらい,高校時代の勉強が役に立った数少ないエピソードである.そのフィンランド人にヘルシンキでのビールとワインの話をすると,アルコール中毒者が多いからだそうである.酒税も高くして,アルコール中毒者が増えないようにしているのだという.
[1]Tarunomainen “Togo"-olut「東郷ビール」という伝説
[2]【歴史】Only in Finland:歴史の中の失策エピソード & 東郷ビール?!
[3]【賞賛されていた陸海軍 知られざる日本】北欧の親日国フィンランド 日露戦争の勝利が独立の精神的支柱に (1/2ページ)
[4]フィンランドのビール
5. 地下宮殿(大貯水槽)のメズサ(メデューサ)の頭
イスタンブールを訪れた観光客は,ブルーモスク,アヤソフィア,トプカプ宮殿は必ず訪れるだろう.これら世界遺産の近くにあって近年人気があるのが,通称地下宮殿とよばれている大貯水槽である.現存する東ローマ帝国の貯水槽としては最大のもので,アヤソフィアとトプカプ宮殿に水を供給するために作られた地下の大貯水槽である.この貯水槽は,ジェームズ・ボンドの『007』シリーズの第二作目(ロシアより愛をこめて)の撮影場所の一つである.水の中に336本もの大理石の柱が突き出て宮殿の柱ように見えることから地下宮殿とも呼ばれている(写真左参照).この大貯水槽には,大理石でできた「メズサの頭」が2つある.メズサは,ギリシャ神話に登場する醜い女の怪物(ゴルゴン3姉妹)の末妹である.ゴルゴン3姉妹は,髪の毛の代わりに生きている蛇が生えており,黄金の翼,青銅の手,イノシシのような牙を持つとされ,自らの翼で空を飛び,ゴルゴン3姉妹の顔を見た者を石と化することができる.これらは3姉妹に共通の特徴,魔力であるが,顔を見た者を石と化すというのがメズサの魔力として一般に知られている.
高さ9 mもある大理石の柱にはコリント様式の他,ドーリア様式のものも含まれているように古代ギリシャ・ローマ神殿から調達したものだと言われている.2つの「メズサの頭」が使われた理由もよくわからないが,逆さま(写真中央参照)と横向き(写真右参照)に置かれた理由はさらに謎である.2本の円柱の高さが足りなかったから「メズサの頭」を台にしたという説,しかも単に高さを合わせるために向きを変えたという説もある.それに対して,メズサが使われた理由はその魔力の効力を期待したからである.さらに,正視すると石にされてしまう恐怖心から向きを変えたという説もある[1, 2].
医学の分野でも「メズサの頭 caput Medusae」がある.肝硬変などで門脈圧が亢進し正常では血液が流れないような静脈,特に臍を中心とした腹部の皮静脈に大量の血液が流れるようになる.その結果,静脈が拡張し皮膚表面に盛り上がったようになる(静脈の怒張).このような怒張した静脈が,ギリシャ神話に登場する醜い女の怪物「メズサ」の蛇の髪に似ていることに由来する.
[1]地下宮殿にはメデューサの首が?イスタンブールの穴場観光スポット
[2]イスタンブールの地下宮殿「バシリカ・シスタン」で必見のメデューサ
5. オリエント急行の終着駅とアガサクリスティ
イスタンブールのシルケジ駅は,オリエント急行の終着駅である.『007』シリーズの第二作目(ロシアより愛をこめて)でジェームズ・ボンドがオリエント急行に乗るシーンは,このシルケジ駅で撮影された.
オリエント急行は,パリからウイーンなどを経てイスタンブールに至る長距離寝台列車である.開通記念列車は1883年10月4日夜パリ・ストラスブール駅(現・パリ東駅)を発車し,6日かけてイスタンブールに到着した.その後,ロンドン,ベルリンからのルートも開発され,これらもオリエント急行と称されている.アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』に登場するオリエント急行は,シンプロン・オリエント急行(1919年 - 1962年)である.アガサ・クリスティは,考古学者である2番目の夫マックス・マローワンが中東方面に赴く際に,たびたびシンプロン・オリエント急行に同伴して乗車したといい,イスタンブール発の列車を舞台とした『オリエント急行殺人事件』を1934年に発表している.雪によって列車が立ち往生してしまうのがこの物語の重要な謎解きの背景になっているが,これはオリエント急行に乗車した本人の悪天候での列車の体験によるという.アガサ・クリスティといえば,灰色の脳細胞を使って難事件を解決していく名探偵ポアロであるが,ヒースクリフ・レノックス少佐が活躍するミステリーも人気がある.イギリスではアガサ・クリスティの再来と言われているのが,Karen Menuhin(カレン・メニューヒン)というミステリー作家である.