見出し画像

私の歩みについて



幼少期

 中国地方の田舎で、弟と2人姉弟。祖父母、両親に愛されて育ちました。予定日より1ヶ月以上の早生児でした。
 人見知りだけど目立ちたがり(でも目立ちたがるのは子供っぽいからあくまで自然に…)。とりわけ母の期待を受け、スパルタな英才教育を施されたように思います。習い事は英会話、七田式右脳教育、プール、そしてピアノ。
 物心ついたときにはピアノは毎朝5時から1時間みっちり、音楽科卒の母親の指導のもと練習。金切声で長時間怒られ続けることや叩く、蹴るは毎日。”手は卵を包むようにふんわり丸めて弾く”ができず、卵を手に取り付けられたことも(割れないか心配して弾くどころの騒ぎではなかった)。
 大人の感覚と子供の感覚って違いますよね。「ここはもっと伸ばす」「ここはもっと優しく、どんどん小さく」。お手本を見せられるのですが、自分のものと何が違うのかわからなかった。
 ここらの経験からか、常に母の顔色を窺うように。自身の子育ての方針などにも多大な影響を及ぼしている感じがします。

学生時代

 勉強はできました。小学校は(誇ることでもないですが)80点以下はとったことがありません。小学校入学前には辞書類でわからない言葉を調べる習慣があり、読書量も人並み以上でした。
 ですが遊んだ記憶があまりありません。

 中学校は大体5番以内/150人。高校は地元の進学校でしたので、勉強漬け漬け。真面目に勉強していましたが、地頭が悪いのか失速。
 ”同程度の成績で入学した子たちは旧帝大クラスを受験するのにお前はなにやってんだ”なんて先生に怒られましたが、それがどうした。実際に受験したのは地元の国立ですが、この時も”1ランク下の大学に願書出せ”と担任に脅され、頭に???マーク。行きたい大学に願書出さないとそこには入れませんよね?? というか、もう出したし。
 このころの私、かなり心が強かったように思います。

 体調面では小学校2~5年で大病を患いました。この間身体を動かせず、どんどん太っていきました(コンプレックスの構築)。また、母が”体にいいから”と大量に健康食品を購入して摂取させてくれました。青汁とか、ウコン茶とか。(嫌いだった、超ストレス。)
 中学時代から生理が重く、よく保健室にお世話になっていました。そしてあまりの痛みに動けず、母を呼び出して怒られる。

 大学は希望していた国立大学に合格し、楽しいキャンパスライフを過ごしました。入学後に開示された成績ではビリでした(笑)真面目に授業受けてストレートで卒業したし、まあ良いでしょう。
 工学部の化学科で、周りはほとんど院進。我が家はお金がないことを理由に院進はNG。就職しました。

 この頃の遊びは、紅茶(ルピシアさんでフレーバードティーを片っ端から試す)、カラオケ、音楽、お菓子作り、アニメ。大学生時代に限って洋服。
 後に夫となる人と神戸やら尾道に遊びに行ったりしていました(青春)。 

社会人①(地元)

 就職は家から近い樹脂製品メーカーの開発職でした。
 1年目はパワハラ上司にあたり心が潰れそうになりましたが、周りの支えによって何とか持ちこたえました(笑)
 1つ思い出深いエピソードがあります。
 当時、その会社は「有給休暇は取得の2週間前までに申請する。それをしなかった場合欠勤とみなす」という謎ルール(というか法律無視)のもと運営されていました。パワハラで病んでいた私、会社に行けず突然当日欠勤。心を持ち直してから次の日出社しました。しかし、元凶の上司と顔を合わせたくないがために逃げ回りつつ仕事をしていたところ、昼過ぎくらいになって怒り狂う上司「なんで昨日急に欠勤したのに私のところに謝りにこないんだ!!!」。
 当時の心の弱い真面目な私、よく持ちこたえたなーと思います。
 そしてさらに意味不明だったのが「欠勤したらその日分の給料減るよ?それに皆勤手当て(1か月欠勤無しの人に支払われる手当。謎。)ももらえないのに何バカなことを…!!(震)」の言葉。
 言われたときは何意味わからないこと言ってるんだろう?みたいな感じ。後から”それ、あなたに心配されること…?”と我に返る。 育てようなんて気はさらさらなく、なんでも自分の思い通りに動いてくれる部下がほしかったみたいに思います。

 パワハラ上司の転勤によりオアシスを手に入れた私。田舎の中小、超絶ブラック…!とはいえ、そこからこの会社での仕事は楽しかったです。顧問のおじいちゃんの力強くも優しくて柔軟な支え、他社との共同研究や、学会発表、国への事業提案など様々な経験を積みました。思い返せば「もっと〇〇できていたら…!」と思うことはありますが、でも精一杯やっていたと思います。
 今はこの時に感謝していることも。
 仕事の仕方など社会人の基礎はここで学びました。今、コスト意識やマナーなど周囲と比べてですが“私は持てているなぁ”と思えるのは1社目の環境のおかげです。
 
 大学4年時に父が洋菓子屋を起業し、可能な日は手伝いました。自身のつてでマーケットやデパートの催事の出店。一人で朝から晩まで頑張りましたが、楽しかったので遊び感覚。今からするとすごい体力。
 地元のデパートや、24時間テレビの催事@イオンモールなんかは本当によく売れた(笑)あと、野外のマーケットも大好きだったなあ。
 あと、他の出店者さん(コーヒー屋さんとか)と立ち話でコラボの企画とか考えるの楽しかった。

 上記以外のプライベートも充実していました。今のところ、ここが黄金期だったように思います。
・学生時代から続いてた趣味(音楽、カラオケ)サークル
・中山間地域への出入り(地域おこし協力隊の知り合いがた沢山ました)
・街中で活動するNPOへの参加、参画(2~3)
・カフェ、スイーツ巡り
・ミュージカル鑑賞
 金曜日の夜は深夜まで友達とカフェで話し込んでいました。忙しかったし大変だったけど充実していた。楽しかった。

社会人②(結婚、引っ越し、出産1年後)

 楽しかった生活。そのままでもよかったのですが、次第に飽きた。そして、なんだかんだあって結婚。
 大学院出て就職していた彼氏について関西に。ミュージカル鑑賞で月1くらいで関西には来ていたのでハードルは低かったように思います。

 1か月ほど引っ越しやらなんやらでお休みを満喫し、2社目である金属+樹脂加工メーカーに開発職として入社。
 同僚は皆陽気で、飲み会ともなると大騒ぎ。1社目では少なかった同年代も多く、「会社の人間関係が楽しい」と思えたのはここの人たち。
 事業はインフラ資材製造で安定していたので、粛々と客先が必要とするものを開発していました。
 入社2年ほどして産休を取得。産前は度々起こる体調不良でかなりご迷惑をおかけしましたが、皆様とても温かく、心の中で感謝の涙を流しながら働きました。よく通勤中に貧血起こしてた。ひやひやー。
 実は妊娠が分かった直後から社内に不穏な空気が。手を付けていた新規事業を拡大するために新工場を購入したはいいが…という内容で、傾いている様子。
 他にも理由はありますが、産休に入る時には、「産んだ出来るだけ早く復帰して、出来るだけ早く転職活動を始めよう」と考えるまでに。
 11月末に産休入りし、4月1日から慣らし保育(赤子は生後3か月)という鬼スケジュール。最近転職先の同僚(男性)が半年くらい育休取ってるのが羨ましいです(私は4か月だった)…!いや、羨ましいけど休むなとは言わん。むしろ休んで家庭の戦力たれ…!!
 予感は的中し、4月に復帰した時には私が勤めていた拠点の解体が決定。復職後すぐに引っ越し準備です。
 そのあとは街中の本社に勤務しながら、片道3時間以上かかる工場まで移動して泊りがけで実験をする日々でした。赤子は夫がみる。
 仕事は進みませんし、大きめの地震があり子供を迎えに行けない状況が発生。先が不安になり、家の近くで転職先を探しました。

社会人③(産後2年目~今)

 運良く家の近くに転職できて、運良く車で通勤可能に。これまたたまたま通勤経路に保育園があったため、フルタイムに戻しました。前の職場は9−16時の通勤1時間(片道)+15分(家-園)→8-17時の通勤30分(片道,送迎含)。
 仕事は、界面重合プラスチックの研究開発(これ以上詳しく言えない)。最初、漸く研究所で研究だー!とテンション↑↑でした。
 実験は楽しかった。作業といえば作業なのですが、当日のうちにに出る結果。大体うまくいかない。1年くらい毎日うまくものができない。次はこうしよう、みたいなアイデアが浮かぶときは楽しい。そうでない時、かしこな上司がぽんっと投げて下さる考え方、天才。
 辛かったのは、同じ拠点で子育て中の女性社員は私のみだったこと。上司のパワハラ(フキハラ、ロジハラの方が強いかも)。上記のように賢い方でしたが、「これくらい何で考えられないかな(圧圧圧)」みたいな。いや、私の力量が足りていないのはわかるんですけど、言い方よ…。
 次第に自己肯定感を失って、声が小さくなる。
 コロナ禍で毎日出社でなかったことは幸運でした。でないと潰れてた。

 どんなことがあっても自己肯定感を失わないこと。私の課題なのかも。

 また、この間には3ヶ月に1回ほどのペースで原因不明の発熱がありました。急激に朝から喉痛が発生し、夕方から一晩発熱。幸い発熱するのは金曜日ばかりで、お休みすることは稀でした。コロナ禍でしたので毎度コロナを疑わなければならなかったのは煩わしかったです。
 疲れかも?と思い、残業をやめ、昼休みは眠るように。土日もどちらかは外に出ない…など対策を講じ、5年程をかけて徐々におさまりました。
 
 転職してからは夫もほぼ同時に忙しくなり、子供の朝ご飯は用意してくれるけど他は殆どノータッチ。夫は在宅勤務できるけど在宅の日含め夜はかなり遅くまで仕事してます。休日は大体ずっと眠っている。そして夜行性なので夜に動く。洗濯干しと食器洗いはやってくれますが、それ以外は「言ってくれればやる」スタンス。がみがみ言い続けて、少しずつは改善。気づいたことはやってくれるようになりました(忙しい中ありがたやー)。
 子供が保育園乳児組の時はフルタイム+家事・育児で記憶がない。

 同時に2人目の不妊治療を始めました。子連れでの治療は想像以上に大変。1時間以上待って処置5分…みたいな。2歳児連れて帰宅するのが19時過ぎとかザラでした。記憶がない。情緒は不安定でした、周りはどんどん妊娠していくし…(今は何とも思っていません)
 3年程頑張って、「5歳差育児はもう無理」と思い諦めました。

 3年ほど研究に携わった後、異動。現在までは健康食品の開発品の評価分析をしています。長期保管試験の菌試験(カビとか大腸菌とかいないか調べる)や、有効成分の減衰の確認(専門的な機器を使います)。当社は製品が多い(上、取捨選択が出来ない体質の)ため、結構忙しいです。
 化学科卒なので化学物質の分析は楽しいのですが(意味がわかるから)、菌試験はあまり好きではありません(言われた通りやってるだけ)。色々勉強はしましたが、専門でないからか思考があまり広がらない。「こうアレンジできる?」と思っても、化学物質と菌では常識が違いますし、そもそも規定のある試験なのでアレンジNG。完全に飽きている状態…

 良かったのは、上司が代わって人の心がわかる方になったこと(笑)引率力には欠けますがきっとトレードオフ… 今の上司は大好きです。
 異動して1年半ほどは発熱もありましたが今は落ち着いています。代わりに?息苦しさがあります。機能的なことには全く問題ないみたい(CTだかMRIだかとりました)。
 体調が芳しくないので、なんだろーと悩んでいます。上司には「まあ、そんなに一生懸命やらんでいいよ。」と言われました。
 今春昇進し、2つ上の上司からは「ちゃんとやれ」みたいな言葉を頂きました(全然人のこと見ていないやつ)。一時期やる気を失っていましたが今は少し上向き。会社にずっと留まらない、と決めたからかも。

 子供の進学を機に1時間時短勤務に変更しました。4ヶ月ほどの体感は、「昨年までより体調がよい」「イレギュラーがあってもイライラしない、余裕がある」。昨年までがギリギリだったみたいです。
こうして自分のことを発信したり、自分の内側や今後のことに向き合えるようになったのも、時間、体力に余裕ができたことが大きいのでしょうね。この余裕は無くしたくありませんが、今の会社に留まるなら3年後にはフルタイムに戻ることに…。

社会人④(今後)

 体力がないのと、4年生以降は時短勤務ができないことなどからさらなる転職、若しくは独立を考えています。自分の名前でお仕事をすることは社会人になってからの夢みたいなもの。

 現状の課題は、
・自己の確立(自己肯定感の低さ、ブレブレの自分軸改善)
 ここに入会しようか長らく迷っている 
・売り出すものをはっきりさせる
 研究・開発しかやってこなかった。独立するなら何を売り出せるのか。
・財務関係他独立に関する知識の習得
 興味が持てなくて避けてきていた
・体調不良の改善(呼吸器、腸、ホルモンバランス、自律神経)

 現状希望する働き方は、以下。
・リモート可(体力勝負の仕事はきつい、子供の放課後問題…変質者も多いし。~週3くらいまで認めらえていると助かる)
・出張はあってもいいけど次の日に絶対出社でなくてよい(22時に帰宅して8時出社は無理)

 
 難しいことだと思うのですが、〇時~〇時 で働きたいわけではないのですよ。別に自分がやりたいことの為なら定時超えて、残業代とかでなくてもやる。時間や場所にとらわれず、自分のこだわりを出せる仕事の方が楽しく働ける気がする。

 「甘い」という言葉をいただきそうですが、ただの理想です。


 また進展があれば書き換えます。
 ここまで見てくださった皆様、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集