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境界線上に佇む魔女見習い

異性愛規範、難しい。
男女一対一の関係ってそんなにも尊いのだろうか。
他者と信頼関係を築き、支え支えられ生きていくことは素晴らしいし理想的だと思う。
けれどそれって異性と、しかも一対一でしかできないことなのだろうか。

彼らは言った。
「僕以外とは体の関係を持たないで欲しい」と。
独占したい感情があるのは分かる。
私も嫉妬深いから。
けれど、それが当たり前のルールであることは、分からない。
病気のリスクがあるのなら、予防すればいい。
嫌ならしないし、したいならする。
それで何が悪いのか。
もちろんそのことについては話し合いと、お互いの言い分を折り合わせることがなによりも大切だ。
けれど話し合いもなにもなく、それが「全人類共通の元来からのルール」であるかのように言われると、分からない。

求められたら全てに応えたい。
これは自傷ではない。
存在する意味を味わいたいだけだ。
誰かにどんな理由であれ一時的に必要とされて、それを満たせた自分に満足することの、何がいけないのか。

やはり私は、愛の名の下に成立する性欲が理解できない。
最もらしい理由をつけているようにしか思えない。
なぜ、恋愛感情を持つと性欲に繋がるのか。
深い人間関係は、恋愛感情がないと成立しないのか。

私には、恋愛感情も性的欲求もない。
名付けてしまえば、アロマンティックであり、アセクシャルである。
とはいえ、自分の身体反応が生物としてある種の「正しさ」を示すと、私は「あぁ、私の身体は生きているのね」と感じる。
そのことは、素敵だと思うし、すごいなぁと素直に思う。

私のようなセクシュアリティについて、「愛がない」や「人付き合いが嫌い」や「異性が嫌い」と勘違いする人がいるらしい。
それは、諸々の基礎的な書籍でも言われている通り、大きな間違いである。
私には、他者への深い愛がある。
そして、ひとりでいたいわけではない。
私にとって深い人間関係とは、恋愛感情とも性的欲求とも違う。
ただそれだけだ。
このへんは、また名付けてしまえばクワロマンティックということになる。

女の子みたいで男の子みたい。子どもみたいで大人みたい。アンバランスで不安定で複雑。

そう評されたことがある。
これは、言われて腑に落ちたし、むしろうれしかった言葉だった。
誰かの想定する「」から、外れている自分をきちんと表現できていたのだなと安心した。

私は、グレーな存在だ。
女の身体に生まれて、でも「女」であることに抵抗感があった。膨らむ乳房を憎んで、私は自分のよりどころを「少女」に見出したのだった。
今でも、乳房を除去したいと本気で思っている。そんな資金もない(当然保険外)から、仕方なくこの身体を乗りこなそうと努力している。
しんどい。
けれど、決して男になりたいわけではなく、精神的に「女」であることには納得している。
ただどれだけ歳を取ろうとも、身体の中の乳房という部位だけはどうしても、未だに自分のものとは思えない。

また、みんなが当然恋愛するものだという規範に乗れなかった。
好きな異性がいて当然とされることへの不快感や、仲良くしていた人が突如「付き合ってください」と言ってくることの不思議。
異性にも同性にも創作物の中の人物にも、恋愛感情をもったことがない。
性的欲求もない。
が、人生経験を経て、求められれば応じることはでき、応じること自体に自分の存在価値を感じるということはわかった。

今、先人たちの努力を土台に、グレーの幅が名称によって拡張されている。
しかし、どんなに名称があっても人間のありようをひとくくりにし、分類しようとする行為には限界がある。

李琴峰『言霊の幸う国で』(筑摩書房、2024)には、以下のように書かれている。

LGBTという四つの頭文字だけを見ると、多くの人たちはそれを「四つの箱」だと勘違いする。しかしそれは間違いである。LGBTは横並びの四つの箱というより、隣接している四つの村に似ている。村と村の境界は曖昧で、かなり重なりあっている部分がある。また、中には二つ以上の村に家を持っている住人もいる。

李琴峰『言霊の幸う国で』342頁。

さらにこの「四つの村」には註で以下のように述べられている。

「四つの村」という表現は「四つの箱」より実情に近いが、それでも全然正確ではない。現代的な文脈で「LGBT」と言う時、それは「四種類の性的少数者」を指すのではなく、「性的少数者の総称」として使うことが多い。そこには恋愛感情を持たないアロマンティックや、性的欲求を持たないアセクシャルなど、「L」「G」「B」「T」に収まらないセクシュアリティが含まれている。「L」「G」「B」「T」以外のセクシュアリティも存在することを強調するために、性的少数者の総称として「LGBTQ+」もしくは単に「クィア」と言うこともある。

同上、343頁、註19。

本書は、小説の体裁をとりつつも現実の社会を事細かに扱い、「公」と「私」の境界を攪乱する試みをしている。未読の方はぜひ読んでほしい。

さて、多くの、当たり前に権利を有する人々は、知らず知らずのうちに、彼ら自身も、他者も、マジョリティであるシスジェンダーの異性愛者だと想定してしまう。
それ以外が「いる」のだと知らないと、そうなってしまうのは仕方のないことである。
それは個人のせいではなく、社会構造の問題で、そう考えてしまったその人を責めるに値しない。
このような社会構造だからこそ、私たち、彼ら、彼女らが「いる」のだと示す「言葉」が必要なのだ。

幸運なことに、現在は、私のようなグレーの存在にも「ここかな」という名づけがなされている時代だ。
とてもありがたいと思う。
ただ同時に、その名前、「言葉」が排除のほうに向くことには注意が必要だ。

「○○でなければ本当の□□ではない。」と、内部または全くそのアイデンティティではない人たちが指摘する事例が見受けられる。
そうではない。
「本当の□□」なんて、そんな人存在するのだろうか?
「本当の男」や「本当の女」といえる人間なんているのだろうか?

私は、自身が非常にグレーな存在であるにもかかわらず(だからこそ?)、物事をカテゴライズしてしまう自分自身の傾向を自覚したうえで、声を大にして言い続ける。
「グレーであることを、そのままに表現できる社会にしよう」と。

上記で引用した「四つの村」は、そのうえで私に馴染んだ表現だった。
村と村の境界線上に住んでいる人もいるし、本書でも述べられている通り、複数の村に家がある人もいる。
誰かのことを理解するとき、そして自己理解をするとき、一先ずはこのように捉えられるとよいだろう。

とはいえ、グレーの人間は生きるのが大変だ。
私はなぜだか、生まれたときから、身体は生きようとし、精神は死のうとしている。
それでもまだ、なんとか生きている。
生命力があるらしい。嫌だな。
生きてしまっているからには、やらなければならないことがある。
私は誰に指図された記憶もないのに、グレーを無理やり白黒つけさせる権力に怒り続けている。

妹は昔から、私の前世を魔女だと言うが、歳をとって素敵な魔女になれたらいいなと思い始めた。
生きてしまっているあいだに、私の憎しみの力と愛の力を発揮できるような魔力がつくといい。

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