結城信一という奇跡 XR脚本術と私小説
PNを「人間失格」としている訳は以前書かせていただいた
通り私小説というジャンルへのリスペクトです。
そしてXR脚本術と私小説的方法論。
この二つは切っても切れないというか
もっと言えば日本独自に発達した世界的小説史においても
特異な私小説、それを令和時代に
完全アップデートしたものがXR脚本術だと自負していたりします。
今回は結城信一という異端の天才私小説作家
をご紹介することで
この2-30年間もの間、なぜ私小説という
ジャンルが忌み嫌われる様になったのか?
しかし逆にこの2020年代・令和時代においては
「物語」!「ストーリー」!「構造」! バカの一つ覚えのように
念仏化したお題目を唱える自称エンタメ小説・脚本家の方々
の時代の方が終わってしまうのに・・・・・・
について書かせていただきます。
結城信一という極北
僕等に脚本を書けなくしている「制度」とは
物語や構造であるとわかり、さらにこれも以前書きましたが
明治時代の言文一致運動においてまったく同じような
制度との闘いがなされていたと知って以後
僕の私小説DIGがはじまりました。
とにかくひたすら私小説とタイトルのつくもの
を読み漁っていた時、「私小説ハンドブック」
に紹介されていたのが結城信一でした。
そして私小説DIGには欠かせない講談社文芸シリーズで
「空の細道」を読んだ時の衝撃・・・・・
AMAZONで検索しても結城信一に関するレビューは
なんと一件しかありません。
そしてGOOGLEセンセイで検索しても
一件を除いてほとんど氏に関する情報は出てきません。
しかしだからこそむき出しの文章にそのまま触れてしまった
「一体全体こんなとんでもないテキストに何故誰も
言及しないんだ?!?!」と思いました
氏が書かれた小説内の主人公達と同じように
孤独のその先の極北に墓標の様に刻まれた書
今現在結城信一の諸作品はそんな位置にあると思います。
生と死、性と聖。全てが決壊しストリームしていく
結城信一の諸作品、中でも代表作と目される事も多い
「空の細道」以降の作品を決定づけているのは
一体この主人公が語っている出来事は本当に起こった事
なのかそれとも妄想なのか?
描かれる人々は生きているのか死んでいるのか?
それさえもわからなくなっていく「決壊感覚」です。
そのうちに何処へ去ったのか急にいなくなる
小鳥たちだけが本能的に知っている道をいっせいに駆け抜けた、と思った。
あたかも瞬き一つのあいだに虹が消えてしまったのと同じように
「空の細道」より
小鳥達と少女達
そして虹と過去と未来と今
「空の細道」というXRな世界では
全てが同時に起こり全てが同時に消失していきます。
以前の記事で言文一致運動から自然主義に至る革命
がどれだけ「物語」という装置を否定したか?を
お伝えしましたが結城信一作品の中では
見事なまでに物語的「起承転結」が決壊します。
その代わりに立ち現れるのは
一瞬の虹のような色彩であり
小鳥たちが唄う複雑なメロディー
ストーリーにおいては枝葉でしかない
そうした感触、でも僕等が生きる上で
大上段な「物語」以上に、確かに此処ではない何処かへ
繋がっていることを確信させてくれる「現れ」
結城信一の作品はそんな微かな「現れ」を結晶化した
美しい宝石のようなテキストになっています
少女という装置
もう一つ結城信一の作品を特異なものにしている
のは氏が終生手放すことがなかった「少女」に対する
オブセッションです。
やはり死ぬまで永遠の少女像に執りつかれた川端康成のように
そして未完成となった遺作もまた「ロリータ」と同じ少女を
テーマにしたものだったナボコフのように
自らの作品において「少女という装置」を使う作家の作品は
まるで少女達そのものと同じように物語から構造から
自由になりストリームをはじめます。
コチラのウェブ上における唯一といってもいい
貴重な結城信一バイオグラフィーによれば
氏の公開されていない遺作「百本の茨」もまた
自らが「出会ってしまった」少女についてのものだったそうです
僕も「無敵の人3.0」でそんな少女という装置を使いました。
僕は映画ロリータが日本公開された時のこの宣伝コピーは
淀川長治氏から水野晴郎氏まで様々な名文句を超えて
史上最高傑作だと思っています
曰く・・・・
「少女は風船ガムとダンスと冒険に恋をし
男は少女だけを見つめた」
結城信一の作品世界では少女だけが
「制度」と「構造」で身動きが取れない
主人公を救います。
世界から本当に脱出するには、少女を見つめなくてはならない
彼女達の一挙手一投足
少女達が紡ぎ出す美しい一秒、否!「1F」だけが
世界を崩壊させる秘儀であり、「正しさ」である
という狂おしいまでの確信が渦巻いています。
これは今の所謂ソーシャルフレンドリーとは真逆であり
だからこそその極私的XR感覚は2020年代という「その先」へと直結します。
僕等はどれだけ「無敵」になれるのか?
あらゆるものが少女によって決壊する
結城信一作品における「少女アナーキー」
「無敵の人3.0」はこのXR時代に氏が少女を書いたとしたら・・・
というオマージュにもなっています
XR脚本術では自らを孤独の極に置いたとき
ホントウに聞こえてくるコトバ(セリフ)とは何か?
そのストリームを捉える事が脚本を書く事だと定義しています。
結城信一氏による私小説はそんな孤独の極北が
そのキワキワの境界線上がどれだけ魅惑的で
いわゆる「物語」以上に豊かな関係性に満ちたものなのかを
教えてくれます。
僕等はまるでこれまた最高の決壊感覚に満ちた
映画「陽炎座」の主人公・松崎のように
結城信一一座の幻想劇に巻き込まれ死と生と聖と性のダンス
を踊る。
そのグルーヴを手に入れる事が2020年代
令和時代の脚本を書く事だと思います。
今回も記事を読んでいただきありがとうございます。
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