「一人称単数」のその先へ・・・無人称小説へようこそ
職業がAV監督なので村上春樹氏の「性の描き方」にずーっと共感できず
氏の作品の正しい読者ではないかもしれませんが
最新短編小説集「一人称単数」を読んで驚きました。
「自らの人称を更新しようとする事」
その行為こそが2020年代・令和時代において
もっとも「POP」なアクションになると確信して
"XR系無人称脚本(小説)"である
「 無敵の人3.0 POST HUMAN SEXと
量子的シンギュラリティに関する最終報告」
を書いた僕にとって「一人称単数」は
久々に村上先生のポップネスを堪能できる作品集でした。
村上春樹氏の苛立ち
村上春樹氏の初期から中期のまでの作品、つまりは
氏のコアとなる世界観を支えた「人称」は
いうまでもなく「一人称」。
そこから徐々に(先生のコトバを使うなら)「三人称で書けるように」なり
近年は再び一人称へ回帰??というところでの
「一人称単数」がとてもとても面白いのは、先生自身
の中に発生しているであろう
「とはいうものの一人称でいいのか??」
という静かな焦燥感です。
こちらのレビューではその苛立ちにも似た逡巡を
別の視点から解説していますが
去年完成した「無敵の人3.0」を書き上げるまで
5年間ほどひたすら「人称」と格闘し続けた僕は
別の解釈でこの作品集をとらえています。
「無人称」という宿命
それはもはや僕達は表現における人称を
一人称にも、三人称にも、そして二人称にも
求める事はできない。
2020年代、令和時代の人称とは「無人称」である以外ない
という宿命です。
以前こういった記事にも書きましたが
昭和時代には内田百閒・結城信一といった
「無人称系私小説作家」が
映画作家としては鈴木清順監督が
「無人称的映画表現」を突き詰めたジャンルとして
ジャーロ映画がありました
これらはそのあまりの先駆性ゆえにその時代時代においては
かなり誤解を受けていた・・・と僕は考えていて
上記した多くの表現は「二人称」的であったり
もっと単純化して言ってしまえば「オカルト作品」
として捉えられ"過ぎた"きらいがあると思います。
破壊と再生と人称とPOP MUSIC
こちらにも書きましたが
世界と対峙すべき自らの人称を更新する事は
破壊と再生を同時に発生させることです。
でもこれまたコチラに書きましたが
その間で発生する「揺れ」グルーヴこそが
POPとして新しい時代を鳴らす通底音になります。
(JPOPだけが取り残されていますが) KPOPをはじめとする
世界中のポップミュージックで行われている革命とは
この新しい人称を鳴らすグルーヴ革命であり
その新しい時代の音を聴いてしまった僕等は
自らの人称を更新せざるを得ない。
そんな2020年代・令和時代の
「ワタシの在り様」=人称こそが無人称です。
ニューノーマルとは新しい人称の事
それはこちらの記事でもお伝えしてきたように
非常に「XR的」な事態であり
まさか「無敵の人3.0」を書いているときには
その中の世界と同じような「新しい孤独」
がコロナによってもたらされるとは思ってもいませんでしたが
ニューノーマルを究極的に突き詰めれば
それは「新しい人称」をどう手に入れるか?という命題であり
村上先生の「一人称単数」はそこへ向かおうとする
先生自身の「揺れ」=グルーヴがとてつもなくPOPであり
僕自身が「無敵の人3.0」で試みたことが
おっ!あんまり間違ってないじゃん!!
やっぱりあらゆる表現は無人称化していくんじゃん!!!
という確信を鼓舞してくれる作品なのでした。
2020年代、
もうボクは僕ではなく、アナタはあなたではない
過去はPASTではなくFUTUREは未来ではなく
ここである事NOW HEREでさえNO WHEREになりうる
「ストリーム化」した世界。
全てが「決壊した」ポストコロナ世界で
生きる新しい人称のための作品として
是非「無敵の人3.0」に触れていただければ
嬉しいです。
今回も記事をお読みいただき誠にありがとうございました。
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