【SS小説】子ども部屋の26時
「マッカラン。18年の」
瑞稀が確信を得たのは、どうもその瞬間らしかった。
店の奥に向かって細長く伸びるバーカウンターの、座席みっつ分をご丁度間に挟んだ絶妙な位置に、男は腰掛けていた。
暇を持て余している風情の、濃紺のジャケットにパンツスーツのスタイル。左腕の裾からチラリと覗くシルバーの時計は文字盤がやたらと大きく、磨かれた盤面は黒色。毛先が長くて襟足の短い髪をワックスで片側に流している。おまけにパンツは、膝上丈。
飲み終えたグラスの氷が、カランと溶けて回った。
瑞稀が小さくため息をつくと同時に、男の注文通り、新しく敷き直されたコースターの上に乗せられすい、と出される。続いて添えられたボトルの文字は「MACALLAN 18」。そこそこ良い年数のウイスキーなので、目が飛び出るというほどではないにしても、どこでも出会える代物ではない。
そのボトルは、つい先程までは、別のお客様の前に置かれていたものだった。
瑞稀の前に。
「あの、どこのどなたか存じませんけど。」
スマホをパタリと丁寧に伏せる音がしたかと思うと、ノンスリーブのワンピースの肩に薄手のカーディガンを掛け直し、瑞稀が男の正面をしっかり見据えて釘を刺すのが見えた。
「さっきから、同じものを頼むの、やめてもらえますか?」
「おや」
「……わたしが単に自意識過剰なだけなのかなと思って、2、3杯は見過ごしてたんですけど。……もう4杯目だし、おまけにそれ18年。本当に好きで飲んでなかったら、ボトルがかわいそう。」
「バレちゃったか」
そこまで言われてもなお、気を害すような素振りすらなく、カウンターに肘をついて男が笑った。細い吊り目が狐を思わせるいけすかない顔だ。
「つい同じもの頼みたくなっちゃったんだよね。君、可愛いからさ」
「さすがに気持ち悪いですし、何なら、このお酒を作っている人が、私の彼なんですけど。さっきから、全部目の前で見られてるんですよ」
ぎょっとしたように、男の声のトーンが急降下する。
「え、そうなの。」
「俺です。すみません。」
丁度グラスの曇りを布巾で丁寧に拭いていた姿勢のまま、視線もくれずにぺこり。と俺が頭を下げると、男の顔がなんとも分かりやすく笑顔を貼り付けたまま引き攣っていくのがわかった。
「松本です。」
「いや、自己紹介とかいらんし」
**
仕度をすっかり終えて、扉を戸締りする。店仕舞いの後、雑居ビルの5階から路地に面した細い鉄の階段を革靴で踏み鳴らして降りていくと、瑞稀はすでに明治通り沿いのガードレール側で直立したまま、すっと左手を頭上に差し出していた。午前2時の片側二車線道路はがらんとして、平日なのもあってか、車一台通る気配などない。
「誰が彼氏だよ。」
ふざけるようにわざと後ろにピッタリつき、肩を肩で小突くと、ややぼーっとした間のあと、瑞稀が道路を見つめたままでうっかり滑り出したような声で言った。
「ごめん、」
「お前な」
呆れてため息が出る。
そのまましばらく瑞稀が間抜けっぽい顔をしているので、親指と人差し指で両側から頬を挟んで、上を向かせてみると、急に我に帰ったのか、ちょっと吹き出したように笑って「なに?」と言った。
「帰れんの?」
「帰れる。」
「家までは送らないからな」
「いい。大丈夫」
ぱっと顔から手を離してやると、瑞稀は軽い足取りで2、3歩離れ、両手を身体の後ろで結んでじっと見つめてきた。なんでか、実家の猫みたいだ、と俺は思った。
「松本!」
「呼んでやるよタクシー。」
スマホから眼をあげて声のした方を向くと、瑞稀が背中を向けながら、顔だけ振り向いて、何やらニコニコと微笑んでいた。嫌な予感がする。
「途中まで、歩いて帰ろう?」
「途中までって、俺お前ん家と反対方向……」
言い切る前に、空いていた方の手を取られ、前につんのりそうになるのも構わず、ヒールのパンプスを鳴らしながら、瑞稀が坂道を下り出す。
コツコツ!
表参道のメインストリートは静かだった。
当たり前だ。飲屋街ではないこの街は、買い物が出来なくなれば人は居なくなる。
「松本、」
「なんだよ?」
「……なんでもないよ」
ディオールもシャネルもアップルストアも、ショーウィンドウに眩く商品を照らす灯りだけ残して、ひっそりと夜に沈んでいた。
瑞稀の眠そうな微笑み顔が、二重硝子に輪郭をブレさせて映っている。
「知ってる? 渋谷まではキャットストリートを歩くと、意外とすぐなんだよ」
円かな瞳が、夜風を受けて夢見心地に細められてかすんでいた。頬から鼻の先まで赤い。完全に飲み過ぎだよ、瑞稀。
掴まれた手首を一度解いて、後ろから指先を手のひらに触れると、指と指の間を埋めるように握り返してきた。
「……今日はこれ、貸しだからな。いつかちゃんと返せよ」
「そんなの無理。手取り少ないから今月はカツカツだもん。」
「なら、お金じゃないもので返してもらおうかね?」
「取り立てが厳しいなー。」
なんの意味もなさない言葉の応酬が、くすくすと路地にこだましていく。
子ども部屋のおもちゃ箱みたいな夜の街灯が、笑い声を受けてキラキラと光った。